人々が受け入れない【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録22:17〜21
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
新約聖書に収められた、様々な手紙を残した宣教者パウロは、もともとキリスト教徒を捕まえる、迫害をしていた人間でした。しかし、より多くのキリスト教徒を捕えるためにダマスコの諸会堂へ向かう途中、復活したイエス様の幻と出会い、自分が攻撃していたキリスト教徒の仲間になるよう促されます。
敵だった者が味方になる、熱い展開と言えますが、現実は、そう簡単じゃありません。パウロを恐れるキリスト教徒は、彼の口から「イエス様と出会った」と言われても、すぐには信じられません。罠じゃないか? そういうふうに嘘をついて、まだ捕まっていない弟子たちや、壊されていない教会を見つけ出そうとしているんじゃないか?
仲間になったと思って、みんなのところへ連れて行った瞬間、本性を表して、縄で捕えたり、鞭で打ちたたいたりするんじゃないか? 実際、パウロはイエス様の幻と出会う前、自分の行動に疑問を持たず、迫害する相手に情けをかけることもなく、会堂から会堂へ回っては、イエス様を信じる者を投獄したり、暴行したりしていました。
最初の殉教者、ステファノが捕えられたときも、その死刑に賛成し、石で打ち殺すことに加担しました。何なら、彼を殺す者たちの上着の番までしたことを、正直に告白しています。そんなパウロが、いきなり、「私もイエス様を信じます」と言ったって、「ようこそ教会へ!」と迎えてくれる人はいないでしょう。
怖がって、警戒して、近づけば防衛のために攻撃する人もいるでしょう。きっと、私たちを油断させて、捕えにきたに違いない。殺される前に、やってしまおう……一方で、今まで、パウロと一緒にキリスト教徒を迫害してきた人たちは、急に迫害をやめて、「イエス様を信じる」と言い出したパウロのことを裏切り者だと思います。
あいつも異端に飲み込まれた、邪道な教えを語り始めた、と一気に警戒を募らされ、彼は孤立してしまいます。もともと仲間だった人たちには、敵に寝返った者とみなされ、もともと敵だった人たちは、信用ならない相手とみなされる。どちらにも警戒され、歓迎されず、行き場のなくなった状態です。
そんな中、パウロはエルサレムに帰ってきて、神殿で祈り始めます。どうしたらいいか分かりません。どこへ行けばいいか分かりません。たぶん、適当に思えるのは、このまま身を隠すことです。自分を恐れるキリスト者にも、自分を憎むユダヤ人にも、見つからないように、ひっそりと姿を消すことです。
ところが、あろうことか、彼は神殿でたいへん目立つ状況になります。我を忘れた状態になり、復活したイエス様と直接出会い、新しい使命を告げられます。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。」
パウロは驚いたことでしょう。つい先日まで、自分が信じていなかったイエス様に「わたしについて証をしなさい」と命じられ、伝道の使命を与えられます。確かに、彼はアナニアのもとで洗礼を受けましたが、受洗して間もない人間です。しかも、この前までキリスト教徒を憎んでいた、攻撃していた人間です。普通は、伝道を頼めません。
さらに、よく考えてみたら、パウロはこれまで行ってきたことを、まだ誰にも謝罪していません。キリスト教徒の皆さん、あなたたちを間違っていると言い、あなたたちの身内や仲間を捕まえ、鞭で打ちたたいたり、投獄したりしたことを謝ります。どうか許してください……そのように、彼が謝っているところは、使徒言行録にもありません。
そりゃそうです。そもそも、今まで迫害してきたパウロに会って、話をしたい人なんて現れません。話を聞いてもらうこと自体、なかなかできません。百歩譲って、自分が間違っていたことに気づき、すぐにみんなへ謝ろうと思ったとして、罪の重さに、どう謝ったらいいか、どう償ったらいいか、何も言葉が出てこないでしょう。
せめて、もう少し時間が要ります。せめて、ある程度和解してから、もう少し受け入れられてから、宣教の使命を負わせてください。今はまだ、私を遣わしても、みんなに受け入れられません。「あいつは罪人じゃないか?」と言われるだけです。「そんなすぐ、反省できたのか?」と言われるだけです。
パウロの懸念は当然です。事実、アナニアやバルナバのとりなしがなければ、彼がエルサレムの教会に受け入れられるまで、もっと時間がかかったでしょう。パウロをはじめとする迫害者から逃れて、外国で教会を作った人たちも、信用できなかったでしょう。この人を仲間として認めるか、共に伝道することを受け入れるか、意見が割れてしまいます。
それでも、キリストはパウロに言いました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」……正気ですか、イエス様? 私を仲間に入れるということは、しかも、伝道に遣わすということは、教会にとって頼もしいどころか、争いの種になるでしょう。一致と団結は難しくなり、ますます混乱するでしょう。どうして私なんですか?
似たような思いを持った人が、旧約聖書に出てきます。それは、出エジプト記に登場する民の指導者モーセです。彼は、ユダヤ人の家に生まれましたが、エジプトの王女に拾われ、王女の子として育てられます。エジプト人の奴隷になっていたユダヤ人の同胞からは仲間と思われなかったでしょう。
また、エジプト人の暴力から、ユダヤ人を守るために、殺人を犯してしまったあとも、モーセは同胞に認められず、むしろ、王へ告げ口されてしまいます。エジプト人からは、殺人の罪で追いかけられ、ユダヤ人からは、信用ならない王女の子として受け入れられず、どうしたらいいか、どこへ行けばいいか分からなくなります。
そんなモーセに、神様は同胞を率いて、エジプトから脱出するよう命じます。どう考えても人選ミスです。見てください、私は人々に受け入れられません。私が何か言っても、信じてもらえません。他の人を遣わしてください。もっと受け入れられやすい、もっと信用されている人を選んでください。
けれども、神様は言いました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」……パウロもよく似ています。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」……人選ミスではありません。神様が共にいる限り、イエス様が一緒にいる限り、和解と、回復と、平和の道は、確かに用意されています。
家庭で受け入れられない人、学校で受け入れられない人、職場で受け入れられない人、社会で受け入れられない人、そして、教会で受け入れられない人。もし、そのように自分を思うなら、キリストはあなたと出会われます。あなたを自分の仲間にされます。友よ、姉妹よ、兄弟よ、と呼びかけます。
人々に受け入れられない者は、キリストに受け入れられた者となり、キリストに受け入れられた者は、遣わされた先で、受け入れ合う仲間と出会っていきます。「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主が、あなたがた一同と共におられるように」(テサロニケの信徒への手紙二3:16)アーメン。
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