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先行き不安じゃない?【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録13:1〜3

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「先行き不安じゃない?」

使徒言行録には、世界宣教の第一人者と目されるパウロことサウロの宣教旅行についてところどころで触れられています。先ほど読んだ13章の冒頭は、まさに、パウロの第一宣教旅行が展開される、序章となっている箇所でした。ここから、キリスト教会が世界中へ広がっていくわけです。

おそらく、多くのキリスト教徒は、アンティオキアの教会から、パウロとバルナバが、みんなの応援を受けて、祈って送り出されていく、ドラマティックな場面として受けとめるかと思います。みんなが神様を礼拝し、断食しているときに、聖霊が降って、新たな使命を告げられる。

「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」……これを聞いた会衆は、再び断食して祈り、命じられたとおり、バルナバとサウロを自分の教会から送り出します。二人の上に手を置いて、祈って出発させていきます。

文字だけで見ると、世界宣教の順調な滑り出しに見えますが、実際のところ、どうだったんでしょう? もし、私たちが礼拝しているときに、みんなで祈っているときに、突然聖霊が送られて、神様からこう言われたらどう思うでしょうか? 「さあ、牧師をわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために」

そう言って、どこか知らない土地の人々へ、キリスト教を伝え、教会を建てるために遣わすよう命じられたら、皆さんはどんな反応をするでしょうか?いや、私たちの教会も牧師がいないと困ります。先生がいなくなるのは困ります。せっかく、何人か転入して、受洗者も現れ、コロナ禍で縮小していた活動も、徐々に再開し始めたのに、牧師が他のところへ行ったら、みんな悲しくなってしまいます。

牧師自身も困ります。いや、まだこの教会に来てそんなに日が経っていないのに、転入したばかりの人や、受洗したばかりの人もいるのに、みんなのことが気にかかるのに、突然、知らない土地の人々へ、新しく教会を作りに行きなさいと言われても、すぐ乗り気にはなれません。

ちなみに、パウロとバルナバは、アンティオキアの教会ができたとき、創立時から教会を指導してきた人物でした。はじめて、その教会に招聘された、牧師と副牧師のようなものです。みんな思い入れのある先生です。しかも、教会ができて一年ちょっと……他にも教師は育ってきましたが、二人がいなくなってしまうのはどう考えても不安です。

パウロとバルナバだって、やっと異邦人の集まる教会が、軌道に乗り始めたときに、こんな使命を告げられたら、ちょっと尻込みするでしょう。いや、まだこの教会のこと気になるし……まだ置いていくのは心配だし……やっと仲良くなってきたのに、また知らないところへ行くなんて、と。

なんなら、このとき教会の人々は、断食して祈っていました。初代教会では、度々断食して祈るシーンがありますが、多くの場合、迫害で苦しんでいるときか、何か困難にぶつかったとき、神様の導きを求めて、そのように礼拝します。アンティオキアの教会が、何の心配もないときに、このようなお告げがあったのではなく、何かしらの困難を感じていたときに、「あなたたちの教師を送り出せ」と命じられてしまったんです。

とはいえ、アンティオキアの教会には、聖霊を受けた「預言する者や教師たち」がいたと書かれているので、伝道師や神学生のような、留守を任せる人たちが一応いたのかもしれません。しかし、ここに出てくる「預言する者や教師たち」も、みんながちゃんとついていくか、不安のない人たちではありませんでした。

ニゲルと呼ばれるシメオンは、ラテン名で「黒」という意味の名前で、アフリカ出身と言われています。ユダヤ人以外の教師が珍しかった時代、それも、人種差別や民族差別が今よりもずっと激しかった時代、彼がみんなの預言者として、教師として立つことに、不安がなかったわけではないと思います。実は、初代教会こそ、かなり先進的だったのかもしれません。

キレネ人のルキオは、今でいう北アフリカのリビア出身でした。彼も、ユダヤ人ではなく、もともと異邦人の人間です。加えて、キレネ人と言えば、イエス様が磔にされるための十字架を、一緒に背負わされ、丘まで運んだ人間と、同じ人種の人でした。キリストの死を連想させやすい人間が、聖霊を受け、預言者として、教師として立てられていきます。

領主ヘロデと一緒に育ったマナエンは、ヘブライ名でメナヘム「慰める者」という意味の名前だったので、おそらくユダヤ人だったんでしょう。けれども、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの幼な友達ということは、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネを処刑した、あの悪名高き領主の友達だったということになります。

イエス様の敵だった人間と、仲良く育った人物が、今や、アンティオキアの教会員として、それどころか、「預言する者や教師たち」の一人として立っていることに、正直、驚きを隠せない人もいるでしょう。パウロとバルナバが去った後、かつては敵側だった彼が、会衆を導く教師として立たされるわけです。

さあ、この人たちに任せて、教会を出て行って、新しい土地へ宣教に出かけることができるのか? この人たちが、パウロとバルナバを喜んで送り出し、「行ってらっしゃい」と言えるのか? まあ、無茶な話だと思います。「そんなこと嫌です」「行かないでください」と言い出す人が絶対出てきます。パウロとバルナバだって、「どうか別の人を」と言いたくなります。

けれども、驚くほどあっさりと、聖書はバルナバとパウロが送り出されたことを書いていました。再び、会衆が断食して祈り、おそらく悩みながら、何か別の答えを期待しながら祈り、それでも、聞かされた神の言葉を受けとめて、宣教のために送り出したことを。かつて、初代教会が見せた選択は、今、私たちが日本で、岐阜で、鷹見町で、礼拝できることともつながっています。

私たちの教会も、これから問われるときが来るかもしれません。うちの牧師が、うちの役員が、うちの奏楽者が、どこかの土地へ遣わされるよう命じられるときが来るかもしれません。そのとき、私たちはアンティオキアの教会と同じように悩むでしょう。同じように、祈って、祈って、どうしたらいいか聞くでしょう。

私たちが、キリストの証人として、誰かに神様の良い知らせを、福音を伝える者として洗礼を受け、聖餐にあずかり、教会員として、牧師として、一緒に歩み続けるというのは、そういうことです。この葛藤から、逃げ出さず、無視せず、目の前にぶつかってくる現実と向き合うことです。

しかし、普通ならできない選択が、普通なら無理だと思う実践が、共に付き合い続ける神様によって、実現されてきた歴史が、私たちの手元に記されています。私たちに厳しい現実だけでなく、励ましと希望をもたらしています。共に今、聖霊から受ける言葉を、知恵を、気づきを受けとめましょう。互いに手を置いて祈り、送り出しましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。