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それでも、やっぱり、まだ疑う【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書24:13〜35

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

教会に通っているけれど、神様を信じているけれど、どうしても復活が信じられない。神の子イエス・キリストが、教えてくださったことも、多くの人を癒やされたことも信じている。全ての人が罪を赦され、神の国に入れるように、十字架にかかってくださったと信じている。だけど、それから三日目に復活したことが、どうしても信じられない。
 
既に洗礼を受けている人からも、まだ信仰を告白していない方からも、双方から、何度も聞いたことのある言葉です。私が学生だった頃、YMCAでお世話になった方や、渋谷で伝道師をしていた頃、時々教会へ来られた方、また、岐阜に来てから出会った方にも、そうやって度々、復活が信じられない葛藤を話されてきました。
 
正直で、素直で、誠実な葛藤だと思います。死んだ人が生き返ったという話は、古今東西、様々な地域で聞かれます。伝説や逸話が残っています。でも、多くは作り話や御伽噺のように捉えられます。何らかのトリックが使われたか、仮死状態だった人が蘇生したんじゃないかと考えられます。
 
他で聞く話と違って、イエス様の話だけは本当だ、実際に起こった出来事だと、客観的に明らかにする証拠のようなものはありません。かつて、復活したイエス様に再会したという人も、一緒に過ごしたという人も、当然ですが、もう死んでいます。イエス様の顔を覆っていた布や、墓の跡地と言われるものが出てきても、復活の証明にはなりません。
 
それでも、イエス様の復活を信じている、三日目に甦ったと信じている、と口にすればある人からは「盲信的だ」と言われるでしょう。本当にしっかり考えたのか、現実と向き合って考えたのか、疑いの目を向けられるでしょう。救い主を自称して「自分を信じれば復活する」と教える教祖の信奉者と、何が違うのか問われるでしょう。
 
改めて問い直されたら、信じていた人も不安になるかもしれません。イエス様が死者の中から甦り、人々に姿を表され、自分を信じる全ての者に永遠の命を与えられた。やがて来たる神の国で、生きている者も、死んだ者も、新しい体に甦らせてくださる。自分は本当に、そのことを信じていると言えるだろうか? 信じたつもりになっていないか?
 
信じたつもりで、実は信じきれていなかった……ということが暴かれてしまう出来事は実際に聖書の中にも出てきます。本日読まれた、ルカによる福音書24章の後半には、イエス様の復活について話していた弟子たちの真ん中へ、本人が突然現れる出来事が記されていました。
 
そこには、ついさっき、エマオへ行く途中、復活したイエス様と再会した弟子たちもいました。遺体が消えた墓の中で「あの方は復活なさったのだ」と言われた女性の話を聞かされた弟子たちもいました。空っぽの墓を見に行ったあと、自分も、復活したイエス様と再会したペトロもいました。彼らはそこで、見て、聞いて、確かに信じたはずでした。
 
にもかかわらず、改めて、イエス様が部屋の真ん中に現れたとき、「あなたがたに平和があるように」と言われたとき、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。「イエス様は復活したんだ」「私もあそこで再会したんだ」と言っていたにもかかわらず、弟子たちは、再び現れたイエス様を「復活した方」ではなく「亡霊だ」と思ったんです。
 
無理もありません。他の福音書では、弟子たちがユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけて集まっていたことが記されています。イエス様が扉を開けて入ってきた様子もありません。本当に、突然、彼らの真ん中へ現れたように書かれています。幽霊が壁をすり抜けたか、いきなり瞬間移動したかのように感じたでしょう。
 
そんな弟子たちに、イエス様は落ち着くように話します。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 
そう言って、手と足とを見せられた弟子たちは、喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていました。恐れていた気持ちはなくなったのに、イエス様の言葉を聞いて嬉しくなったのに、まだ信じられなかったんです。ちょうど、イエス様の教えと業を聞きながら、イースターを祝いながら、まだ復活が信じられず、不思議がっている私たちのように。
 
すると、イエス様は「ここに何か食べ物はあるか」と尋ねてきます。弟子の一人が、その場にあった焼いた魚を一切れ差し出すと、イエス様はそれを取って、みんなの前で食べ始めます。幻ではない、夢ではない、確かに、あのとき一緒にテーブルを囲んだ、自分たちと食事をしてきたイエス様が、帰ってきたんだと実感させます。
 
イースターというのは、最初から最後まで、イエス様の教えを信じ、復活を信じていた者が、特別に選ばれて救われた……という話ではありません。むしろ、現実を見て信じられず、恐怖のあまり信じられず、喜びのあまり信じられなかった弟子たちに、イエス様が死を超えて現れてくださった話です。
 
復活を疑わない、心から信じている者だけに、イエス様が現れるのではありません。むしろ、聖書は、疑っていた弟子たちのもとに、信じきれなかった人たちの真ん中に、イエス様が現れてくださったこと、「あなたがたに平和があるように」と言われたこと、恐れから解放するため、目の前で食事をされたことを記しています。
 
もし、「復活を信じられない自分は、クリスチャンを名乗る資格がない」「心から信じているという自信が持てない私は、キリストの弟子を名乗れない」と思っている方がいたら安心してください。あの日、あの時、イエス様は、あなたがいる部屋の真ん中に現れました。イエス様の復活を疑っている、信じきれない人たちの真ん中に現れました。
 
そして、あなたを自分の弟子と呼び、聖霊を送ることを約束しました。あなたを信頼して世に送り出し、祝福されました。イースターを不思議な気持ちで迎え、喜びながらも、信じきれていないあなたを、イエス様は、神の国に迎える仲間として、既に食卓へ招いています。あなたは私たちと同じ、神の民の一人です。
 
さあ、部屋の真ん中に現れたイエス様を迎えましょう。賛美を歌い、祈りを合わせ、共に喜びを分かち合いましょう。「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えてくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケ二3:16)」アーメン。


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。