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神の子が洗礼を受けちゃった【日曜礼拝】


《はじめに》

城之橋教会の礼拝で行ったメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 マタイによる福音書3:13〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 昨年の12月22日の日曜日、私が所属する華陽教会で、バプテスマ(洗礼式)が行われました。キリストの誕生を記念するクリスマスの礼拝で2人の方が信仰を告白し、教会の一員になったんです。「自分が洗礼を受けたのも、ちょうどクリスマスの時期だった」という方が、ここにも何人かいるでしょう。

 もし、洗礼式を一言で説明するとしたら、「キリスト教の入信式」という表現になると思います。おそらく、この教会で、父が聖餐式をやるときにも「洗礼式は、キリスト者になるための式で、この聖餐式は、キリスト者であり続けるための式です」というふうに伝えていると思います。

 洗礼式では、水の中に体を沈めることで、キリストを知らない古い自分が死に、水の中から起こされることで、キリストを知って、新しい自分に生まれたことを表します。全身を水につけないで、頭から水を注ぐ「滴礼」の形も多いですが、いずれの場合も、水を用いて、「イエス様が私のことも、洗い清めてくださった」ことを証しします。

 「証し」というのは、イエス様の教えと業、イエス様から受けた恵みを、みんなに伝えていくことです。洗礼式は、全ての人を救うために、十字架につけられて復活したイエス様が、私にも、罪の赦しを得させるため、十字架にかかり、新しく生きる者へと変えてくださったことを証言する「感謝の応答」でもあります。信仰者が、イエス様との出会いを示す、最初の伝道です。

 よく、洗礼式を「救われるための条件」と考えてしまう人もいますが、条件というよりむしろ、「救いを信じて受け入れた者の感謝の応答」です。聖書をどれだけ読んでいるとか、礼拝にどれだけ参加したとか、「何か、救いに値する基準を満たしたから受けられる」というものではなく、ただ、「この私をも救ってくれる」と信じて応答する行為なんです。

 しかし、聖書に出てくる初期の洗礼は「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、少し違った意味がありました。イエス様が生まれる半年ほど前、不妊の女であったエリサベトと、高齢の祭司であったザカリアに、神様によって男の子が生まれます。その子は洗礼者ヨハネと呼ばれ、人々が、イエス様を信じて受け入れるための準備をする者となりました。

 彼は、神様が約束していた救い主は、自分のあとから来るイエス様のことで、「この方に罪を赦していただきなさい」と人々に教え、勧めていました。そして、罪を告白した人が救い主に受け入れてもらえるよう「悔い改めの洗礼」を授けていました。後に、イエス様と敵対する、ファリサイ派やサドカイ派の人々が来たときは、彼らに向かって、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と迫り、キリストを信じて受け入れるよう忠告していました。

 つまり、初期の洗礼、「悔い改めのバプテスマ」は、救い主に罪を赦され、受け入れてもらうための、清めの儀式、償いの儀式だったんです。そのため、罪の告白が不十分だと感じたり、償いが足りてないと思ったり、救い主に赦してもらえる自信のなかった人たちは自分自身を清めるために、何度もヨハネのもとへ来て、悔い改めの洗礼を受けていました。

 現代の洗礼は、「キリストが私を清めてくださった」「罪の赦しを得させてくださった」と信じて応答する行為なので、赦されるために、何度も受ける必要はありません。しかし、今でも、「やっぱり自分は、救いにふさわしくないんじゃないか……」と不安になり、自分自身を清めるため、何度も洗礼を受けたくなる人がいるかもしれません。

 「こんな自分の状態で、赦しを得られるわけがない」「天の国、神の国に、迎えてもらえるわけがない」「あのとき洗礼を受けたけど、まだまだ、自分が清くなったとは思えない」そんなふうに考えて「もう一度、洗礼を受けさせてもらえませんか?」と尋ねてくる人もたまにいます。今のままなら、自分は救いに値せず、滅びに定められてしまうだろう、と。

 ところが、イエス様は、人々が救いに値するかどうか「審査をしようとする」どころか自分も洗礼を受けにやって来ます。ヨルダン川に訪れて、ヨハネに「洗礼を受けさせてほしい」と頼みます。本来なら、イエス様が洗礼を受けるシーンではなく、悔い改めた人々が、イエス様から審査を受け、合格かどうか言い渡されるシーンなのに、イエス様はそうなさいません。

 洗礼者ヨハネも動揺します。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」……それは、心からの戸惑いだったでしょう。あなたは救い主じゃないですか? 悔い改める必要のない、神の独り子じゃないですか? 誰よりも清い方で、こっち側ではないでしょう? それなのになぜ、洗礼を……?

 簡単です。この方は、遠く離れたところから、私たちを審査する方じゃないからです。私たちと一緒に悩み、一緒に苦しみ、一緒に新しい命を受けて、天の国へと招かれる方だからです。イエス様は、高いところから見下ろして、あなたを審査するような方ではありません。あなたのところまで降りてきて、一緒に川の中に入り、一緒に水の中へ沈み、一緒に起き上がる方なんです。

 私が牧師として、誰かに洗礼を授けるとき、洗礼を受ける方を通して、イエス様と新しく出会います。皆さんも想像してください。もし、自分が牧師で、誰かに洗礼を授けることになったとき、嬉しい反面、不安になってこないでしょうか? 本当に、私がこの人へ洗礼を授けていいんだろうか? そんな資格があるんだろうか? むしろ、私の方こそ、洗礼を受け直す必要があるんじゃないか?

 そんなとき、ハッと気づかされるんです。今、私の前にいるのは、イエス様ご自身でもあるんだと……この人の洗礼を、自分から授けていいものか、迷ってしまう私のもとへ、この人を通して、イエス様が現れた……洗礼者ヨハネにイエス様が訪れて、「洗礼を受けさせてほしい」と頼んだように、イエス様は私にも、この人を通して、新しく出会いに来てくれたんだと。

 そう、教会で誰かが洗礼を受けるとき、私たちは、受洗志願者を通して、新しくイエス様と出会わされます。かつて、イエス様が、あなたと共に水へ入り、あなたと共に起き上がって、一緒に歩んでいることを、その身で現してくださったように。イエス様は、洗礼を受ける者を通して、その人を迎える会衆にも、新しく出会ってくださいます。

 神の子が洗礼を受けたのは、私たちと出会い続けるためなんです。倒れない者を導くためではなく、倒れた者と、共に起き上がるためなんです。溺れない者を救うためではなく、溺れた者と、共に川から上がるためです。「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」イエス様がそう言われたのは、信じない弟子を見捨てるためではありませんでした。信じない者が、信じられるまで、救いにあずかる者となるまで、付き合い続けるためでした。

 洗礼を受けてなお、自分が清められたと思えない、救いにふさわしい者と思えない方はどうか安心してください。赦しを受けたと思えない、裁きを免れると思えない方は知ってください。イエス様は、あなたが救いに到達するまで、遠くから見ている方ではありません。あなたの隣にやって来て、あなたと一緒に荷物を背負って、救いの道を進む方です。

 あなたが罪を告白し、悔い改めて祈るのは、イエス様に「審査」されるためではありません。イエス様は、あなたと一緒に歩むため、悔い改めのバプテスマを受けられました。あなたの重荷を一緒に担い、あなたのために執り成して、あなたを救いに導きます。足が止まって動かない者を「なぜ立ち止まるのか?」と責め立てることはありません。

 むしろ、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と語ります。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」と、一緒に荷物を背負います。たとえ、それを思いとどまらせようと、私たちが拒絶しても、「今は止めないでほしい」「今はそうさせてもらいたい」と言って、私たちが沈んでいる水の底へ自分も入ってくるんです。

 「主よ、あなたにそんなことをさせるわけにはいきません」「私のために、そこまでしてもらうわけにはいきません」と言ったところで、この方は決して止まりません。「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と宣言し、私たちの道連れになるため、あなたと一緒にゴールするため、水の中へ入ります。

 父なる神も、子なるキリストを止めません。むしろ、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と宣言し、同じ思いであることを告げられます。“神の子が洗礼を受けちゃった”ちょっと不思議な出来事も「インマヌエル」(神が我々と共におられる)という呼び名にふさわしい、イエス様の生き方を伝えているんです。

 どうか思い出してください。あなたが洗礼を受けた日を、あなたが新しくされた日を。イエス様は、あなたと一緒に水に浸り、あなたと一緒に出てこられました。あなたと一緒に荒れ野をさまよい、あなたと一緒に誘惑を受けました。あなたが悩み、苦しみ、疑って、神から離れようとしたときも、この方はあなたと共に苦しんで、御言葉を思い出させます。神の口から出る一つ一つの言葉を渡し、正しい道へ立ち帰らせます。

 そう、イエス様は、あなたが神の国に迎えられるまで、あなたの道連れとして、付き合い続けてくださいます。あなたが滅びに定められるのを、ただ見ている方ではありません。この方は、自分を見捨てた者たちに「永遠の責苦の炎」ではなく、新しい生き方をもたらす「聖霊の炎」をもたらしました。良い実を結ばない者たちには、良い実を結べるようになるまで、死を越えて働きかけてきました。

 私も未だに迷います。神様が愛しているのなら、どうして不幸がやってくるのか、どうして助けがすぐ来ないのか、疑問が次々湧いてきます。何か事件が起きる度に、神の裁きを受けているのか、自分はゆるされない存在なのか、心に疑いが出てきます。ついには、神様に叫んでしまいます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか……」

 その叫びは、信仰を捨て、神に背いたとみなされてしまう叫びです。「不信仰者」「不信心者」と言われかねない叫びです。しかし、私と一緒に、同じ言葉で叫んだ方がおられます。十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び息を引き取った方がいます。その方こそ、主キリストです。

 父なる神に「なぜ、お見捨てになったのですか」と大声で叫んだ神の子は、動かないまま、死んだままにはされませんでした。十字架につけられてから三日目に、死者の中から起こされて、再び、弟子たちに訪れます。神様が、愛する者を捨てたまま、傷ついたままにはなさらないことを、その身をもって示しました。

 私たちが、「神に見捨てられた」と叫ぶとき、「なぜですか?」「どうしてですか?」と訴えるとき、イエス様も、私たちと一緒に叫び、一緒に呻き、一緒に起き上がってくださいます。捨てられたまま、傷ついたままにはされないことを、思い出させてくださいます。だから、あなたも信じてください。倒れたままにはされないことを知ってください。

 「悔い改めが足りてない」「信じる気持ちが欠けている」「罪の赦しを得られない」……そのように感じている者へ、そのように見なされる者へ、救い主は訪れました。他ならぬあなたのために、この方は洗礼を受け、十字架につけられ、復活して、何度も会いに来てくれました。これからも、疑い、迷い、戸惑う者と、新しく出会い続けます。

 だから、この方を止めずに迎えなさい。正しいことをすべて行いなさい。天から聞こえてくる、神の宣言を聞きなさい。味わい、見よ、主の恵み深さを。アーメン。


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。