今も理解しきれない【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 箴言3:13~20、ローマの信徒への手紙11:33~36
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
聖書には様々な教えが出てきます。色んなたとえも出てきます。ある箇所で語られていることが、別の箇所で語られていることと、矛盾したり、ぶつかったりしてしまうことも出てきます。中には、そもそも何を言いたいのか、よく分からない話も出てきます。つながりが、文脈が、背景が見えない不思議な言葉……それらを前に、私たちは悩みます。
「先生、どうしてここには、こんな言葉が書いてあるんでしょう?」「この話は、いったい何を意味しているんでしょう?」「私には、とても酷いことが書かれているように見えるのですが、どう受けとめたらいいでしょう?」……聖書を読み始めたばかりの方も、何年も礼拝へ来ている方も、洗礼を受けた信徒の方も、度々、そうやって聞いてくれます。
聞いたら馬鹿にされないか? 不信仰だと責められないか? 失礼なことだと怒られないか?……そういうふうに、強張らないで、信頼して、問いを発してくれることは、牧師にとって、たいへん幸せなことでしょう。同時に、牧師自身も、自分の信仰を試される、知恵や知識を試される、ドキッとするような問いかけです。
イエス様が残された、たとえ話一つを取っても、キリスト教会で一致した、共通の読み方が、正しい解釈が、一つの答えが、存在するわけじゃありません。3階の集会室にあるズラッと並んだ分厚い注解書を見ても、テストの答案のように、聖書の読み方が決まっているわけではないと分かるでしょう。
これってなかなか厄介です。聖書の教えをもとに、どのように物事を捉え、どのように道を選択し、どのように生きていけばいいか、決めていきたいと思ったのに、神の言葉、神の教えは、「これが正解」というものを、すんなり出してはくれません。むしろ、どれが正解か分からない、何が答えか分からない、問いかけばかりが出てきます。
コロナ禍で会堂に集まることが困難になったとき、どうすればいいか、聖書から答えを知ろうとしても、正直、最後まで分かりませんでした。換気とマスクを徹底して、集まり続けようとしたり、人数を分けて集まったり、配信を通して、在宅で礼拝を行ったこともありました。しかし、聖書はどれを正しいと言っているのか、結局今でも分かりません。
神の聖別された日曜日に、教会に集まって礼拝しないのは間違っている! いやいや、安息日は人のために定められたのだから、安息日のために病気のリスクを強いることこそ間違っている!……聖書とにらめっこしていたら、どちらも言えてしまいます。このパンデミックをどう受けとめたら正解か、どう乗り越えたら正しいか、疑問はさらに続きます。
各教会の判断も、対応も、受けとめ方も、一致した見解はなかったですよね? みんな手探りで、神様に問いかけ続けながら、聖書の言葉を読んでいました。実は、初期のキリスト教会も、イエス様の教えについて、信仰者の生き方について、一致した見解を持っていたわけではありませんでした。
宣教者パウロが手紙を送ったローマの教会では、ユダヤ人のキリスト者と、ユダヤ人でない異邦人のキリスト者が、一緒に礼拝していましたが、両者は度々衝突しました。ユダヤ人のキリスト者は、古くからユダヤ人に授けられた、神の掟である律法を守っていましたが、異邦人のキリスト者は、律法を守っていませんでした。
何を食べてはならないか、どんな暦を基準にするか、神様が命じてきたことの捉え方に幅が生まれていきました。ユダヤ人が守ってきた律法を、異邦人はどこまで守るべきか、守らせることに意味はあるか、様々な議論がありました。使徒言行録に出てくるエルサレムの会議で決めたことと、その後、手紙で指示される内容も、多少のブレがありました。
かつて言われていたことと、今言われていることと、どちらが正解なのだろう? どれに従ったらいいだろう? 神様が求めていることを、正しく受け取りたいけれど、神様が教えていることは今も理解し切れない。日曜日、礼拝でメッセージを聞く度に、水曜日、聖研でメッセージを聞く度に、まだまだ理解していないことが多いんだなと思わされる。
実は、皆さんがそう思うとき、牧師も同じことを思っています。けっこうギリギリまでメッセージができなくて、何とか語る言葉が出てきたとき、「この話にこんな意味があったのか……」「こんな呼びかけがあったのか……」と、冷や汗をかきながら気づかされます。そのきっかけに、会衆の皆さんからの問いがあります。
自分一人では向き合えなかった厄介な問いに、皆さんが向き合わせてくれる度、私が一人では聞けなかった、神様の知恵と知識に照らされます。神学校に6年行ったくらいで、牧師を7年続けたくらいで、神様の道を理解して、迷わず教えられるわけないんです。いつも迷っています。いつも途方に暮れています。そしてびっくりしています。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」……パウロから漏れ出たこの言葉は、まさに、私たちが体験することです。理解しようと思っていたけど、分かったつもりになっていたけど、神様がもたらす気づきと発見は、これからも終わることがない。
もし、教会へ通うようになって、礼拝へ参加するようになって、もうけっこう経っているのに、神様のことを、今も理解し切れない、まだまだ知らないことだらけ……と、情けなく感じている人は、私もその一人であることを知ってください。ここにいる、あなたの隣に、前に、後ろにいる人も、日々、神の知識に驚かされていることを知ってください。
神の定めを究めること、神の道を理解することが、途方もなく遠いことのように感じたら、それは、あなたが神様に、選ばれ、招かれ、賜物を受けている証です。あなたは紛れもなく、神に向かっているんです。キリストに向かっているんです。この方が、あなたに神の民へ加わる思いを起こしたなら、どうか、その招きに応えてください。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。