仕事と家族を捨ててきた?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 マタイによる福音書4:18〜25
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「私に付いて来なさい」「私に従いなさい」「私のもとに来なさい」……イエス様の呼びかけに従った最初の弟子たち、後に「十二使徒」と呼ばれるようになった者たちは、仕事と家族を捨てて、すぐイエス様に従った様子が、聖書の中に描かれています。そのうちの4人は、ガリラヤ湖で魚を獲っていた漁師でした。彼らは仕事の真最中でした。
ペトロとアンデレは、湖で網を打っているとき、それを見たイエス様から呼びかけられます。「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」……マタイによる福音書では、このシーンがイエス様と2人の最初のやりとりです。初対面でいきなり「私に付いて来なさい」と言われます。本来なら「誰この人?」「何言っているの?」となるシーンです。
ところが、2人はすぐに網を捨てて、イエス様に従います。漁の最中に、仕事の途中で初対面の男に付いて行きます。現代でも、網は漁師にとって、貴重な道具の一つですが、数人がかりで一枚一枚、手作業で作っていた時代には、なおさら貴重な物だったでしょう。簡単に捨てていけるような、すぐ買い直せるような代物ではありません。
サラリーマンがパソコンを捨てて付いて行くような衝撃的な展開です。しかも、イエス様の誘い文句は、ことさら魅力的にも思えません。「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」……皆さんも「人間をとる漁師って何だ?」と疑問に思ったことでしょう。私もよく分かりません。
漁師とは、魚をとる職業です。「人間を網でとりたいか?」と言われても、誰も頷きませんよね? 魚を釣るように「人間を釣る」という表現も、あまりポジティブなイメージはありません。どちらかと言うと、「フィッシング詐欺」とか、「釣り動画」とか、誰かを騙して詐欺に引っ掛ける、ネガティブなイメージの方が強いかもしれません。
古代イスラエルでは、「人間をとる漁師」と聞いて、何かピンと来るものがあったんでしょうか? 実は、エレミヤ書16章16節に、こんな言葉が出て来ます。「今、私は多くの漁師を遣わし、漁師たちは彼らをすなどる」「その後、私は多くの狩人を遣わし、狩人たちはすべての山、すべての丘、また岩の割れ目から彼らを捕らえる」
それは、イスラエルがバビロニアの侵攻によって滅ぼされ、多くの人が外国で捕虜となっていた時代、神様が預言者を通して残された言葉です。今は、多くの者たちが国を失い外国に散っているけれども、神様は散っていった全ての者を回復するため、彼らを集める漁師や狩人を遣わして、追いやられた人々を自分の国へ迎えるときがやって来る。
ただし、神様の遣わす「漁師」や「狩人」に集められた人々は、神に背いた過ちと罪を「倍にした罰」を受けてから、自分の国へ帰ることができる、という預言なので、やはり「人間をとる漁師」には、恐ろしいイメージがついてきます。王と国民の不義や不正を告発し、悔い改めて救われるよう促してきた「神の人」「預言者」を彷彿とさせる表現です。
もし、ペトロとアンデレが「自分も預言者のようになりたい」と憧れていたなら、「人間をとる漁師にしよう」というイエス様の呼びかけは、魅力的に聞こえたかもしれません。けれども、初対面の人間が、預言者の言葉を思い起こさせる呼びかけをしても、すぐ信用できるかと言えば、そんなことはありません。まず、何者か問いかけるのが普通です。
ところが、2人はイエス様が誰なのか、尋ねることもしないまま、すぐに網を捨てて従います。まるで、宣教を開始したばかりのイエス様のことを、もとから知っていたように見えてきます。確かに、ヨハネによる福音書では、ペトロとアンデレの兄弟は、もともと洗礼者ヨハネの弟子で、彼からイエス様について聞いていたことが記されていました。
洗礼者ヨハネはイエス様に洗礼を授けた張本人で「イエス様こそ、神様がこの世に遣わすことを約束していた救い主だ」と人々に伝えていた人物です。もしかしたら「わたしに付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられた兄弟は「この方は、洗礼者ヨハネが『見よ、神の小羊だ』と言っていた人だ!」と気づいたのかもしれません。
洗礼者ヨハネの弟子であった2人が、イエス様に従って、そのあとに付いて行く様子を目にした人々は「ついに、ヨハネが言っていた『私より力のある方』『聖霊と火であなたがたにバプテスマをお授けになる』と予告していた方がやって来たんだ」と察する場面になったでしょう。
別の2人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、ペトロとアンデレを連れたイエス様がお呼びになると、すぐに舟と父を残して、イエス様に従います。彼らも察したんでしょう。ペトロとヨハネが従っているこの人こそ、洗礼者ヨハネが告げていた、あの救い主メシアなんだと。
仕事を捨てて、すぐに従う弟子たちの様子は、一見すると、イエス様が特別な方だと即座に分かり、ためらうことなく付いて行った、すごい人たちのように思えるかもしれません。私たちも、ためらうことなく、疑うことなく「すぐに従う信仰」を持たなければならないと、言われているように感じるかもしれません。
しかし、イエス様に呼びかけられ「すぐに従った」ように見えている弟子たちも、洗礼者ヨハネによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をさせられていた者たちの一人だったのだろうと思います。実際、弟子たちはイエス様に従ってから「一体、この方はどういう人なのだろう」と改めて自問するシーンが出て来ます。
彼らも特別、信心深い目があったわけではないんです。むしろ、イエス様の言うこと、為すことを理解できなくて、混乱したり、信仰の薄さを指摘されたりする人間です。彼らが弟子として選ばれたのは、彼らの信仰が際立っていたからではありません。知恵や能力が高いからではありません。イエス様が彼らと関係を築きたかったから選ばれたんです。
一方で、ヤコブとヨハネがイエス様に従うシーンでは、別の問題が出てきます。それは父親と一緒に、舟の中で網の手入れをしていた息子たちが、父親のことも放置して、イエス様に付いて行ってしまうことです。いやいや、仕事を捨てて付いて行く覚悟は分かるけど、父親まで捨てて行くのは、あっさり家族を置いて行くのは、ちょっと違いません?
神様が人々に授けた「十の戒め」に「あなたの父と母を敬いなさい」と出てくるのに、話が違うじゃないですか? しかし、実際に、イエス様に従う弟子たちが、父親を残して置いて行く場面を目にすると、仕事を捨てて、家族を捨てて、キリストに従う信仰が試されている、要求されていると、考える人もいるかもしれません。
けれども、このシーンは、イエス様の弟子たちが、イエス様に従うため、家族と関係を切って、家族を顧みなくなって、付いて行ったという話ではありません。なぜなら、この後も、イエス様の弟子たちと、家族との関係は切れておらず、続いているからです。それどころか、イエス様は、弟子たちの家族とも、新たに関係を築いていきました。
たとえば、マタイによる福音書8:14〜17では、イエス様がペトロの家に行って、熱を出していた姑を癒された話が出てきます。「姑がいる」ということは、ペトロも結婚して、家庭を持っていたんでしょう。彼は、イエス様に従った後も、自分の家へ帰ったり、イエス様を招いたり、姑を癒してもらったりしていました。
また、マタイによる福音書20:20〜28では、父親を舟に残して、イエス様に付いて行ったヤコブとヨハネの母親が、息子たちと一緒にイエス様のところへ来て、願い事をするシーンが出てきます。どうも、息子たちは両親と関係を切らされたわけではなさそうです。むしろ、母親も息子たちと一緒に、イエス様のもとを訪れる関係ができていました。
そう言えば、網を捨てて、舟を残して、イエス様についてきた弟子たちは、湖を移動するため、度々舟を出していました。イエス様に従ってからも、自分たちの食料を得るため舟から網を下ろすシーンもありました。それらの道具は、家族や仕事仲間と共有していたものだったでしょう。
「仕事を捨てて」付いて来た弟子たちは、その後も、仕事仲間や家族から、舟を借りることができる、網を借りることができる、それぞれの絆と関係を築き続けていたわけです。そう、弟子たちが仕事を捨てて、家族を置いて、イエス様に付いて来た話は、破壊的カルトでよく見られるような、関係性の破壊をもたらす話じゃありません。
むしろ、イエス様は、弟子たちと家族の関係を蔑ろにせず、彼らの家を訪れて、家族を癒し、家族と話し、新しい関係を築いていきました。イエス様は、あなたの家族も蔑ろにはされません。日曜日、家に残してきた家族、一緒に来られなかった身内のもとにも、あなたが置いてきた仲間のもとにも、イエス様は訪れます。
教会へ来る人だけが、癒されたわけではありません。イエス様の話を聞きに来た人だけが、神の国の福音を、良い知らせを聞かされたわけではありません。イエス様は、自分を訪れる人だけでなく、自分からガリラヤ中を回って、あちこちを訪れて、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされました。自分から町や村へ行って、神の言葉を伝えました。
今日、あなたが置いてきた者、残してきた者のもとにも、イエス様は訪れます。あなたがここから送り出され、自分の家へ帰って行くとき、イエス様もあなたと一緒に、あなたを待っている人たちのもとへ、帰って来るんです。あなたがイエス様に付いて行くとき、その場に残してきた者は、残されたままにはされません。
だから、この方の呼びかけを聞きなさい。安心して従いなさい。イエスは言われた。「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」それは、あなたに向かって語られた言葉でもありました。あなたとの関係を築く呼びかけでもありました。あなたが置いてきた者をも呼び集める声でした。さあ、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ。」
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。