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苦しみを忍ぶ【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙二1:1~7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 福音のために、わたしと共に苦しみを忍んでください……福音のために、わたしはこのように苦しみを受けている……テモテへの手紙二1章に出てくるこれらの言葉は、キリスト教の「福音」「良い知らせ」「イエス様の教えと業を信じて証ししていくこと」が「苦しむこと」ともつながっている、という厄介な事実を突きつけます。

 手紙の著者として名前が出てくる使徒パウロは、自分のことを「主の囚人」すなわち、神に捕まえられた人と表現しますが、それを「恥じてはなりません」とも言っています。一般的に、囚人という表現は、ネガティブな印象を持たせます。どこかに閉じ込められ、枷をつけられ、罰を受けている罪人として捉えられる。

 普通は恥ずかしいことです。その状態を好ましいとは思いません。むしろ、不快で、不自由で、一刻も早く、抜け出したい状況として捉えられます。にもかかわらず、パウロは自分が「主の囚人」であることを良いことと捉え、「恥じてはならない」と言っています。単に「自分が恥じていない」というだけでなく、周りにも「恥と思うな」と言うんです。

 そういえば、パウロの名前が冠された手紙には、「主の囚人」という表現の他にも「キリストの奴隷」という表現が出てきました。コリントの信徒への手紙には、「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者」「主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷」という言葉が出てきます。

 「奴隷」という言葉も、自由とは程遠い印象です。囚人と同じく、枷をつけられ、労役を課され、どこかに閉じ込められている……そんなイメージを持つのが普通です。しかし、「神の奴隷」「キリストの奴隷」と言う場合、そのような「人間の奴隷」とは違って、不自由になるどころか、自由になることが告げられています。不思議ですよね?

 また、エフェソの信徒への手紙には、こんな言葉も出てきます。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」……やはり、人の奴隷として、人に仕えることと、神の奴隷として、神に仕えることは、同じイメージで捉える話じゃなさそうです。

 主の囚人になる、神に捕えられるとは、どういう状態なんでしょう? パウロの場合、それは突然の出来事でした。今まで、「神の子を自称する不届き者」と思っていたキリストが、実は本当に神の子で、自分の前に姿を現し、「なぜわたしを迫害するのか」と言って、目を見えなくされてしまう。

 パウロは一緒にいた仲間に手を引いてもらわなければ、自由に歩くことも、食べることもできなくなりました。まさに、不自由な状態です。このまま、神の子を冒涜してきた罰を受け、信者を迫害してきた報いを受けて、無防備な状態で、ボコボコにされるかに思われました。

 ところが、パウロを待っていたのは、自分が迫害してきた人たちからの仕返しではなく、自分のために、目が見えるように祈り、手を置いて、とりなしてくれる人たちでした。ゆるしてもらえるはずがない、受け入れてもらえるはずがない人の、癒しと励ましが待っていました。

 それは、かつて、自分が間違った人たちだと思い込み、ゆるすことのできなかった存在でした。それは、直前まで、自分をゆるしてくれると思えなかった存在でした。自分が嫌悪し、敵対し、憎しみを返されるはずだった、愛し合えるはずのなかった存在でした。その人が、自分のために手を伸ばし、洗礼を授け、共に使命を担ってくれと言ってくる。

 神様に捕まったパウロは、もう逃げられなくなりました。こんな奇跡は、他のどこにもありません。仲良くなることも、和解することも、期待さえしていなかった人たちと、新たな関係が築かれる、主の囚人になりました。それは、パウロが神に忠実だったから、もたらされた関係ではありません。パウロが正しかったから、受けた恵みではありません。

 神様の方から、パウロを選んで、パウロを捕まえ、パウロと和解してくださったから、与えられた恵みです。自分の過ちを悟らされ、新たな生き方を促されるとき、神様は単なる罰ではなく、罪人が囚われていた関係を壊し、新たな関係をもたらします。互いに憎み合う関係から、互いに愛し合う関係へと、動かないはずの現実を動かしてしまいます。

 実は、新約聖書において、イエス様の弟子たちが「囚人になる」という出来事は、敵対していた人たちが、新たな仲間に迎えられる、という出来事と、度々セットで出てきました。使徒言行録4章では、ペトロとヨハネが牢に入れられ、議会に引き出されたとき、2人の語った言葉を聞いて、イエス様を信じるようになった人が、5千人も現れました。

 使徒言行録16章では、パウロとシラスが牢に入れられ、木の足枷をはめられたとき、2人の賛美の歌を聞いて、全ての囚人が、彼らの言うことを聞くようになりました。さらに、2人を閉じ込めていた看守まで、囚人がパウロたちの言うことを聞いて、壊れた牢屋から、誰一人脱走せず、自分を待っていたのを知って、共に洗礼を受けました。

 神の囚人になるということは、ここで伝道なんてできない、ここで仲間になる人なんていないと思い込んでいる私たちに、思ってもみない関係が、新たにもたらされていくというダイナミックな出来事です。パウロは何度も投獄され、鞭打たれ、苦しめられてきましたが、同時にそこは、単に苦しむ場所ではなく、思ってもみない喜びを受ける場所でした。

 こんな不自由な状態で、こんな不自由な檻の中で、仲良くなれるはずのなかった人たちと、賛美を歌い、食卓を囲み、信仰を支え合うことになるなんて……思い通りにならなかった苦しみが、思ってもみない喜びになり、自分を作り変えていくなんて……パウロの驚きは、8節の言葉に凝縮されます。

 「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」もし、皆さんがキリストを信じることで、その信仰を露わにすることで、恥を受け、苦しみを受けなければならないなら、あなたはパウロと同じ道を歩んでいます。

 あなたの期待したとおり、あなたの思っているとおりに、伝道の道は続いていないかもしれません。むしろ、自由にならない、困難な状況ばかりが続いているかもしれません。しかしそれは、あなたが伝道の道から外れている証ではありません。神様は、監獄さえ教会にし、囚人さえ隣人にし、看守さえ仲間にしてしまうお方です。

 あなたを閉じ込める場所が、神の自由な働きの場になるんです。あなたがそこにいることは、あなたを通して、そこが教会になるということです。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」
 アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。