既にかなえられている?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネの手紙一5:10〜21
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
身内がスピリチュアルビジネスや陰謀論ビジネスに取り込まれてしまい、「家族関係が壊れてしまった」「お金を無心されてしまった」という相談を時々受けます。取り込まれた人たちが、教祖の言うこと、コミュニティーで言われることを信じる力は凄まじく、普段の態度や言動も、大きく変わってしまいます。
家族は途方に暮れるしかありません。今まで聞かなかったフレーズや、おかしなキーワードが出る度に、親が、子どもが、兄弟が、遠く離れていくような、二度と戻ってこないような、強い不安に襲われます。しかし、「言っていることがおかしい」と、「間違っている」と否定すれば、かえってのめり込んでいくため、ただ様子を見守るしかありません。
そんな身内が、ますます、家族へ危機感をもたらす行為の一つに、未だかなえられていないことが、既にかなえられたかのように「もう起こった」「実現した」と周りに見せる姿があります。「願いは既にかなえられている」「実現することが決まっている」……そのように自ら発信し、教祖へ感謝するんです。
どこかで見たような光景です。そう、教団の聖書日課で指定された、本日の礼拝の聖書箇所、ヨハネの手紙一5章15節に、こう書いてありました。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」
困りましたね。ヨハネの手紙一は、異端とか偽教師に、信徒が惑わされないよう書かれたものでもあるんですが、現代においては、スピリチュアルビジネスや陰謀論ビジネスに利用できそうな言葉に聞こえてきます。「願ったことは既にかなえられている」つまり、願いがかなったように振る舞えば、信仰深いと認められ、願いが現実になるんじゃないか?
だから、貯金もないのに、お金があるような生活をし、治ってないのに、病が治ったような振る舞いをして、「願いがかなった現実」を引き寄せようと、自分ばかりか、周りまで巻き込む人が現れる……そんなの絶対嫌ですよね? それに、普段から、神様に願い事をしてきた人たちは、納得できないかもしれません。
「神に願ったことは既にかなえられている」……それが本当なら、なぜ、私の病気は治らないのか? なぜ、我が子は洗礼を受けないのか? 願ったことがかなわないのは、私の願いが「神の御心に適っていない」「ゆるされていない」からなのか? 私がお願いしたことは、そんなにゆるされないことですか?……と。
当然、ヨハネの手紙が書かれた頃も、教会に集まる人たちは、そう簡単に、自分たちの願いが、かなえられるわけではないと知っていました。教会が一致して、信仰生活を送ることはなかなかできず、むしろ、次々と分裂し、異端が発生していました。尖った教えや特別感を与える異端に引き付けられ、教会から去っていく人も続出しました。
この手紙が読まれる頃には、既に、多くの人が異端の影響を受け、教会から脱落者が出ていました。中には、身内が異なる教えに惹かれて偽教師のもとへ行ってしまい、関係が壊れた家族もあったでしょう。現代でも、身内と引き離された人が願うように、残された信徒も願ったはずです。「家族が、仲間が、うちへ帰ってきますように」と。
けれども、一生懸命祈っても、なかなか願いはかないません。むしろ、事態は悪化していきます。偽教師は「神の子イエス・キリストが、私たちと同じ人となって、人の痛みや苦しみを、一緒に負ってくださった」ということを否定し、「イエスは人の姿で現れたが、実際には、純然たる霊的な存在だった」と主張しました。
そして、霊的な生活は、道徳的な生活よりも高潔で、霊に関する知識は、道徳の規範よりも重要だ、と人々を信じさせました。そのため、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えは蔑ろにされ、自分の霊的なステージを高めるために、特別な知恵をつけることばかり、熱心になる人が出てきました。家庭も仕事も顧みず、霊的な世界を追い求め、人間関係が壊れていきます。
もしも、それが自分の身内だったら、大切な友人の一人だったら、動揺せずにはいられません。目を覚まさせようと、異なる教えを否定すれば、「霊的な生活を邪魔する者」「知恵の習得を妨げる者」と、余計に憎まれてしまうでしょう。自分たちの言葉が届かない、耳を塞いだ兄弟のため、何ができるか考えたとき、ヨハネの手紙はこう言ってきます。
「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」思わずドキッとさせられます。死に至らない罪を犯した兄弟のためなら、神に願うことがゆるされる。でも、死に至る罪を犯していたら、その人が帰ってくるよう願っても、神は助けてくれないのか? 願いはかなえてもらえないのか?
ここで言う「死に至る罪」とは、神の子イエス・キリストが、私たちの罪を贖うため、十字架にかかって命をささげてくださった「愛」を拒絶することです。つまり「キリストは人の姿で現れたが、実際には霊的な存在だったから死ななかった」と考え、その愛を受け取らず、愛の実践をも蔑ろにする偽教師は「死に至る罪」を犯しています。
それって、偽教師のもとへ行き、教会を出て行った人たちも「死に至る」ということですよね? やっぱり、彼らのために願い事をし、神様に祈っても、聞き入れてもらえないんでしょうか? 無駄なことなんでしょうか? イエス様の十字架と復活を信じないで、差し伸べられた愛の手を、払い除けてしまった人は、二度と救われないんでしょうか?
そういえば、イエス様の十字架を拒絶して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と否定してしまった人の姿が、福音書の中に出てきました。それは、イエス様が「多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明けたとき、思わず、わきへお連れして、いさめ始めたペトロです。
よく考えると、使徒たちの中心人物であったあのペトロも、人間の罪を贖うイエス様の愛を拒絶して「死に至る罪」を犯してしまった一人でした。実際、彼はイエス様が十字架にかかるのを拒絶したとき、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく非難されています。
ペトロはそのまま、「死に至る者」として、悪の支配下にある者として、帰って来られなかったんでしょうか? 救い主の邪魔者として、サタンと呼ばれたまま、滅ぼされていったんでしょうか? そうではないことを、私たちは知っています。十字架につけられる前夜、彼のために、信仰が無くならないよう、イエス様が祈ったことを知っています。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」……シモン・ペトロのために祈った、イエス様の願いは、すぐ現実になったようには見えませんでした。
ペトロは、イエス様が捕まったとき、他の弟子たちと同じように、ふるいにかけられ、逃げ出します。その後、隠れてイエス様の後を追いますが、自分も仲間じゃないかと疑われると「わたしはあの人を知らない」と三度否定してしまいます。さらに、イエス様が十字架にかけられた後も、イエス様が復活するまで、立ち直る様子はありません。
彼が家に閉じこもっている間、兄弟たちを力づける描写もありません。むしろ、イエス様から「復活する」と言われていた日がやって来ても、女性たちが「イエス様に出会った」と証言しても、復活を信じることなく、みんなを励ますことなく、戸に鍵をかけていました。しかし、私たちは知っています。彼が立ち直り、兄弟たちを力づける日が来たことを。
やがて、ペトロは復活したイエス様と出会い、イエス様が天に昇って見えなくなったあとも、他の兄弟たちを力づけ、信仰生活を支え合うよう、励ます者となっていきます。聞き入れられなかったように見えた、ペトロのためのあの祈りは、ちゃんと神様に届いていて、かなえられていたことが明らかになります。
ペトロは、自分がイエス様を三度否定したにもかかわらず、「死に至る者」から「死に至らない者」へ、「永遠の命を受ける者」へ変えられていったことを証しします。自分のために、神の子が来て、真実な方、憐れみ深い神様を、知るようにされた事実を伝えます。イエス様を「十字架にかけろ」と叫び、拒んでしまった人たちにも……。
その「福音」は、「良い知らせ」は、彼だけでなく様々な弟子たちによって広がります。最初は、イエス様を神の子と信じないで、その愛を拒絶し、教会を攻撃していた迫害者、パウロもその一人です。彼は、キリストに出会って、目を見えなくされたあと、その目が開かれるように、アナニアから祈ってもらいます。
当初、パウロの悪事を知っていたアナニアは、彼のために、目が見えるように願うことをためらっていました。しかし、イエス様ご自身の促しによって、彼のために手を置いて願い事を祈り始めます。その願いは聞き入れられ、パウロは、キリストの愛を拒む者から受け入れる者に変えられて、ペトロたち「使徒」の仲間に加えられていきました。
迫害によって、仲間が殉教し、教会を破壊され、悪に支配されていると感じさせられる世の中で、信仰者が、キリストを拒絶する者のために願い事を祈るなんて、まず、有り得なかったでしょう。「死に至る罪」を犯した者のために、「この人が仲間になりますように」「この人が救われますように」なんて、期待さえできなかったでしょう。
それは、「人にはできない願い」でした。ヨハネの手紙の著者でさえ「これについては、神に願うようにとは言いません」と断っておくほどでした。しかし、イエス様は、自分を拒絶した者のために、信じなかった者のために、とりなし、願い、救いを受けとる者となるように、どこまでも導いてくださいます。
死に至る罪を犯した者たちが、そのまま死に至らないよう、自ら関係を結びに行きます。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」……この言葉は真実です。私たちが、自ら願えないことでさえ、願ってくださるキリストは、悪の支配を終わらせて、神の支配を完成させる、真の王であり救い主です。
だから、この言葉を受け取ったあなたも、イエス様から、永遠の命を得ていることを知ってください。手紙の著者が悟らせたかった、良い知らせを受け取ってください。イエス様が、自分を見捨ててしまった者にも、自分を拒んでしまった者にも、新しく、関係を結びに来たことを思い出してください。願いは既に、かなえられているんです。
この方と、結ばれない人なんていないんです。この方に、命を与えられない人なんていないんです。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」……アーメン。
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