三度否定した者へ【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 イザヤ書63:1〜5、ヨハネによる福音書21:15〜19
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
死んだはずの人間が3日目に甦って、自分を見捨てた仲間のところへ現れる。「必ず帰ってくるから」「3日目に戻ってくるから」そう言ったのに信じないで、閉じこもっている仲間のもとへ会いに行く……イエス様の復活を、後から見返してみると、けっこう孤独な復活だったことが分かります。
最初に再会したマリアは、自分の声を聞いても気づいてくれず、顔を見てもまだ分からず、泣きながら「あなたが遺体を持ち去ったんですか?」「どこに置いたのか教えてください」と犯人扱いしてきます。約束どおり、甦った自分ではなく、死んだままの、遺体の自分を捜す彼女に、イエス様は「マリア」と声をかけ、ようやく気づいてもらえました。
ところが、マリアが弟子たちに「わたしは主を見ました」「復活したイエス様に会いました」と伝えても、弟子たちは信じないで、戸に鍵をかけたまま閉じこもっていました。墓から出てきたイエス様を探しに行くことも、帰ってきたらすぐ迎えられるよう、鍵を開けておくこともなく、ユダヤ人を恐れて閉じこもっていました。
イエス様は、自分を締め出した弟子たちに、家の真ん中へ現れて、「あなたがたに平和があるように」と言われます。十字架にかかったときの、手とわき腹の傷跡を見せ、確かに復活したことを示します。弟子たちはイエス様の声を聞き、イエス様の手とわき腹を見てようやく信じることができました。
けれども、イエス様が帰ってきたとき、一人だけ家に居なかったトマスは、他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」と言われても、信じようとしませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。
八日の後、イエス様は彼のためにも現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました。トマスはイエス様の言葉を受けて、「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができました。
しかし、それからしばらく経ったあと、イエス様が再び、弟子たちに姿を現したとき、彼らはまたも、イエス様だと分かりませんでした。夜が明けるまで、ティベリアス湖で漁をしていた弟子たちは、岸の方からイエス様に声をかけられ、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われますが、誰に声をかけられたのか、一向に気づく気配がありません。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われて、そのとおりにしたところ、網が引き上げられないほど魚が獲れて、初めて「主だ」と気がつきます。陸に上がった弟子たちは、イエス様から「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれ、間違いなく、イエス様だと知ることができました。
これが、復活したイエス様と弟子たちの3度目の再会です。3度目ですが、弟子たちは一度も、イエス様を迎える準備ができていませんでした。イエス様が帰ってきても、戸には鍵をかけっぱなしで、家を出て捜しに行くこともなく、再会しても、声を聞いても、それがイエス様だと分からないまま、しばらく過ごしてしまいました。
そんな中、食事を終えて、イエス様が弟子の一人に尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」……「この人たち以上に」って、なかなか酷な質問です。みんなの前で「はい、わたしが一番あなたのことを愛しています」「この人たち以上に、わたしはあなたを愛しています」と答えるわけにもいきません。
それに、ペトロ自身、イエス様に「あなたを一番愛しています」と言える資格があるのかどうか、自信を持てないときでした。自分が捕まりそうになったとき、イエス様のことを3度知らないと否定したくせに……「あなたのためなら命を捨てます」とイエス様へ言ったのに、結局、命が惜しくて逃げ出したくせに……私が「愛している」と言えるのか?
ペトロは考えた末、こう答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」……正面から、「わたしが一番あなたのことを愛しています」とは言えないけれど、このように聞いてきたイエス様は、今も、わたしが自分を愛していると信じて聞いたに違いない。
すると、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と答え、二度目の質問をしてきました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」……念押しのように聞くイエス様へ、ペトロはやはり、正面から答えられず、同じ回答しかできません。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
すると、イエス様はまた「わたしの羊の世話をしなさい」と答え、三度目の質問をしてきます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」……ペトロは、イエス様が三度も、「わたしを愛しているか」と聞いてきたので、悲しくなってしまいました。まるで「愛しているの? 本当に?」と疑われているように見えたからです。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」……自分の言葉が届かないのか、聞いても信じてもらえないのか不安になりながらも、いいや、この方は分かってくれるはずだ、わたしのことを知っているはずだ、とペトロは必死に答えます。
それはちょうど、イエス様が「3日目に甦る」と言った言葉が、信じてもらえなかったとき、復活して声をかけても、気づいてもらえなかったとき、弟子たちに抱いた不安と期待を思い起こさせるものでした。そうか……イエス様も、わたしが気づかなかったとき、信じられなかったとき、寂しく思いながらも、信じ続けてくださったのか……と。
イエス様は、答えます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」……それは一見、罪を犯した人に対する、報いのように聞こえます。
イエス様を3度知らないと否定して、復活しても、すぐには信じなかったことを非難して、お前は将来嫌な目に遭う……と言われているように感じます。しかし、ペトロにとって、この言葉は、非難や罰の宣告ではなく、「あなたもわたしと同じ道を通って、わたしと同じところへ来る」という大切な知らせに聞こえたでしょう。
なぜなら、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる……というのは、ペトロが最後までついて行けなかった、イエス様の歩んだ道、十字架の道のりだからです。「あなたのためなら命を捨てます」と言いながら、自分の十字架を背負えなかった、思わず逃げ出してしまったペトロに、イエス様は言うんです。
わたしは、あなたがわたしを愛しているのを知っている。わたしのいるところへついてきてくれるのを知っている。わたしが捕まったとき、十字架にかかったとき、あなたがついてこられなかった、あなたの行きたくないところ、恐れているところへも、あなたは必ず、来ることができる。わたしの行くところへ、あなたも連れてこられる。
イエス様は、自分を3度否定した者へ、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、最も大切な使命を託されました。自分と同じように、神の栄光を現す者として、行きたくなかったところへ、行けなかったところへ、一緒に行くことができると宣言しました。そして、改めて言うんです。「わたしに従いなさい」
イエス様の方から、私たちに願い、頼み、信頼してくださいます。自分に「従えない」と思っていないんです。「できる」と知っているんです。あなたはここに来ることができると……もし、自分の愛に、信仰に、勇気に、自信がないのなら、何もかもご存じであるキリストが、あなたの行けなかったところへ連れて行ってくださることを思い出しましょう。
これはペトロだけでなく、イエス様を信じて、キリストの証人となった全ての人に向けられた言葉です。「わたしに従いなさい」……共に、神の栄光を現す者として、イエス様があなたを選んだことを思い出しましょう。あなたが否定したことよりも、あなたが応答してくれたことを信じてくださる主がいます。立って、答えて、行きなさい。
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