霊の狙いが分からない【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録21:1〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
もし、自分が行こうとする場所で、敵に捕まり、引きずって行かれ、投獄されてしまうという幻を見せられたら……聖霊によって「このまま進めば酷い目に遭う」と言われたら皆さんはどんな選択をするでしょう? 基本的には「ああ、このまま進んじゃいけないんだな」と思い、道を変える……というのが普通だと思います。
同様に、自分の大切な人が、目的地へそのまま進んだら、同郷の者に手足を縛られ、外国人に引き渡される……と警告されたら、やっぱり、行かないように言うでしょう。「聖霊から、あなたに危険が及ぶと知らされた」「そっちへ行ったら捕まるどころか、殺される恐れもあるらしい」「だから、行くのをやめてほしい」と。
本来、「そのまま行ったら酷い目に遭う」という幻を見せられ、どういう危険に遭うのか知らされたら、聖霊によって「こっちへ来るな」と言われている、と考えるのが自然です。皆さんも、悪夢を見たり、虫の知らせがあったりして、酷い目に遭いそうだと感じたら、それでもそこへ行こうとは、なかなか思わないでしょう。
これは、神様が、私を別の道へ行かせようとしているんだ。私が危険な目に遭わないよう、こっちへ進むのを止めているんだ。周りの人も、自分の将来について、夢やお告げで警告されたら、口々に言ってくるでしょう。「聖霊があなたを止めている」「そっちへ進んじゃいけないと言っている」「頼むから行くのをやめてくれ」と。
けれども、パウロはずっと前から、エルサレムへ帰ったら、十字架につけられたイエス様のように、敵に捕まり、引きずって行かれ、暴力を振るわれた上、投獄される……という知らせを受けていたにもかかわらず、そのまま突き進もうとします。何度も聖霊が警告するのに、幻を見せてくるのに、彼は行くのをやめません。
とうとう、彼の周りの人も、聖霊によって警告を受けるようになりました。このまま、エルサレムへ帰らせたら、彼は捕まってしまうし、投獄されるし、命の危険に晒される。当然、こういう知らせを受けたからには、パウロを止めなきゃいけないと、みんな感じて必死になります。
これはきっと、彼が行くのを止めるよう、聖霊が私たちに働きかけているんだと。実際、使徒言行録21章4節では、パウロの同行者たちが「“霊”に動かされ」て、エルサレムへ行かないように繰り返し語っています。彼らだけではありません。かつて、世界中の大飢饉を預言したアガボまで、遠くからやってきて、パウロの帯を取って警告します。
「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」と……ここまで来たら、普通は観念するでしょう。神様は、自分を危険なところへ行かせまいと、この人たちまで遣わして、私を止めているんだと……けれども、パウロは真逆の反応をします。
「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」……さて、エルサレムへ行ったらどんな目に遭うか、パウロに知らせた聖霊は、人々からパウロに警告させた聖霊は、いったい何を狙っていたんでしょう?
パウロをエルサレムへ行かせることが目的なのか、行かせないことが目的なのか、どっちか分かりません。想像してみてください。もし、私が「明日、四国へ行きます」と言って、四国で事故に遭う夢を見たら、教会のいる人たちも「四国で牧師は酷い目に遭う」とお告げを受けたら、神様は、牧師を四国へ行かせまいとしている、と考えますよね?
「私は四国で事故に遭うことを覚悟して行くんです」と言われても、皆さん、それが神様の計画だとは思えないのが普通です。いやいや、聖霊によって警告されているんだから素直に行くのをやめましょうよ。もっと別のタイミングか、今はここに留まりなさいという意味で、神様は私たちにも警告させたんじゃないですか?
しかし、これだけ酷い目に遭うと警告されても、「いいえ、そこへ行くことが私に与えられた使命です」と譲りません。この人自身も、聖霊を受けているのでタチが悪い。果たして、このまま行かせるのが正解なのか、やっぱり止めるべきなのか、皆さんも分からなくなります。
結局、どう言っても心変わりしない相手に、皆さんが言えることは一つです。「主の御心が行われますように」……正直、神様が何を思って、危険を知らせたのか分からない。この人が覚悟して行くことを求めたのか、今は行くのをやめるよう促したのか、私たちにも分からない。今はただ、私たちには想像もつかない神の御心に委ねるしかない。
そうなんです。実は、聖霊からお告げを受けても、神様から幻を見せられても、この先起こることを預言されても、それによって、何が求められているのか、何が命じられているのか、最後まで分からないんです。何か行おうとして、それに関する警告を受けても、神様が私を止めたいのか、進ませたいのか、はっきり知ることはできません。
たとえば、希望する進路を妨げられたとき、次々と警告を受けたとき、この道へ行くことは聖霊が止めているんだ……と周りが、自分が、判断することは簡単です。でも、パウロはどうでしょう? 彼は、あらゆる町で、自分の目的地に苦難と投獄が待ち受けていると警告され、同じ“霊”を受けた仲間たちからも引き止められます。
今だったら、たいていの人が、聖霊によって止められていると思うでしょう。しかし、聖書の続きを読むことのできる私たちは、彼が、確かに、聖霊に促されて、エルサレムへ帰ったことを知っています。どちらかというと、聖霊の警告を無視したように見えるのにむしろ、正面から受けとめた結果だったと知っています。
私たちは、聖霊の導きを求めます。聖霊による気づきや、警告や、促しを求めます。しかし、同じ聖霊を受けていても、何を促されたと感じるかは人それぞれです。パウロ一人と、それ以外の仲間たちで、聖霊が何を命じたか、受け取った答えが違ったように、私たちも異なる捉え方をします。
たとえ、「これは聖霊の促しに違いない」と思っても、実際に、聖霊が私に働いていても私が正しく、その働きを受けとめているかは分かりません。あなたに聖霊が働いたとき、あなたが正しく、その働きを解釈できるかは分かりません。もしかしたら、大勢が、聖霊によって止められたと思ったことが、むしろ止めてはいけなかったことかもしれません。
しかし、大事なことは、聖霊の導きを、正しく受け取ったとしても、誤って受け取ったとしても、最後まで付き合い続けてくださるという信頼です。パウロがエルサレムへ行くことを促したにせよ、止めようとしたにせよ、彼らに降った聖霊は、この後も、彼らが行く場所、留まる場所に、一緒に居続けてくれました。
エルサレムへ旅立ったパウロにも、パウロを止めようとした人々にも、聖霊は力と励ましを与え続け、彼らがイエス様の教えと業を、神様がもたらす希望と救いを、人々へ伝えられるように、呼びかけ続けてくれました。ある時は間違いに気づかせ、ある時は自信を付けさせ、揺れ動く私たちの間で、主の御心が行われるよう、付き合い続けてくれました。
今も、その働きは続いています。泣いたり、心をくじいたり、神様の意志とは異なる道を勧めようとする私たちにも、聖霊は、慰めと、気づきと、勇気をもたらそうと、呼びかけ続けてくださいます。どうか、自分を絶対視しない誠実さと、安易な答えを出さない自制心、はっきりした「しるし」がなくても信頼できる信仰が、一人一人育まれますように。
世界を創造された神様と、この世に来られた救い主と、天から送られる聖霊の導きが、これからも、世々限りなくありますように。アーメン。
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