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愛してないと思われた【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 コリントの信徒への手紙二11:7〜11

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

前奏から始まって、招詞、賛美歌、お祈り、聖書と、それぞれの要素について、一つ一つ説明を聞きながら礼拝に参加していると、一時間前後の礼拝で、けっこう色んな準備が必要だと分かってきます。教会暦や聖書箇所に合わせて、どんな前奏を弾き、どんな賛美歌を選び、どんなメッセージを語るのか……迷い、考え、悩みながら用意する。
 
これを毎週行っている奉仕者がいます。多くの場合、日曜日の礼拝で、聖書の言葉、神の言葉を告げ知らせるのは、牧師の役目と思われます。良い知らせ、福音を語る働きをしているのは、聖職者だと思われます。しかし、礼拝で、神の言葉が語られるのは、司会、奏楽、配餐などを、毎週、毎月、用意して、練習している奉仕者がいるおかげです。

彼らの多くは、自分を低くして、無報酬で奉仕をしています。仕事の合間、家事の合間に、次の前奏で何を弾こうか考える。時間を縫って教会へ行き、伴奏の準備や編曲をする。日曜日の朝早くから、聖書朗読のリハをする。遅くまで残って会計報告をつけ、次の礼拝に必要な出金の準備をする。これら全てが積み重なって、福音が告げ知らされています。
 
コリントの信徒への手紙を読んだとき、宣教者パウロの言葉を聞いたとき、私は真っ先に、司会や奏楽を担い、聖餐を整え、会堂を綺麗にしてくれる、皆さんの声が聞こえてきました。「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせた」……華陽教会でそれを行っているのは、無償で奉仕を担っておられる皆さんでしょう。
 
牧師の私は、コリント教会で報酬を貰わなかったパウロと違って、毎月謝儀をいただいています。地区や教区の研修へ行くときには、教会や教区から、交通費の補助もいただきます。しかし、奏楽の研修や楽譜の購入、銀行と教会を行き来する交通費など、受け取っていない奉仕者や役員はけっこういます。
 
教会でお昼を作るとき、子どもたちにお菓子を包むとき、いくらか持ち出しで用意してきた方もいます。みんなに負担をかけないように、自分が奉仕するための費用まで、黙って出し続けてきた方がいます。平日に、日曜の朝に、会堂やトイレを綺麗して、みんなが気持ちよく礼拝へ出られるように、何の見返りもなく掃除をしてきた方もいます。
 
おそらく、本日読まれた聖書の言葉は、パウロが書いた手紙の言葉は、私から読み上げるよりも、皆さんの口から語られる方がふさわしいでしょう。あなたがたは自分を低くして、神の福音を無報酬で告げ知らせてきました。決して生活が楽ではないときも、お互いに負担をかけないように、精一杯工夫して、奉仕を担ってくださいました。
 
一方で、そのようにしてきた手紙の著者、宣教者パウロが、教会の人たちを愛していないと思われた、非難されたことが、チラッと暗示されています。不思議ですよね? コリント教会のために無報酬で、他の教会からかすめ取るようにしてまでも、自分の生活費を賄って、奉仕してきたパウロに対し、それを非難する人がいたんです。
 
なぜでしょうか? 牧師だったら分かりやすいかもしれません。華陽教会に赴任した私が、華陽教会の牧師なのに、華陽教会でみんながささげた献金から、謝儀を出そうとしても受け取らず、他の教会から援助をもらって生活する……どうして、他の教会の援助は受け取るのに、私たちからは受け取らないのか? 私たちのことが嫌いなのか?
 
愛していないと思われた……それも、無理のないことかもしれません。パウロは以前の手紙で、自分のように、神の言葉、聖書の言葉を宣べ伝えている人たちは、教会から援助を受ける権利があると言っていました。自分の代わりに、誰かを派遣するときも、その人への援助を惜しまないようにお願いしていました。
 
にもかかわらず、コリントの教会では援助を受け取りません。他の仕事と掛け持ちしながら、以前いた教会から生活費を助けてもらいながら、福音を語り続けています。コリントの教会は貧乏だったんでしょうか? いえ、むしろ、宣教者とパトロン関係を結べるような、有力な信者も地元にいました。
 
パウロの他に、会衆を教えていた教師の中には、そういった有力な信徒とパトロン関係を結んで、「大使徒」として生活している人もいました。ひょっとしたら、より有力な信徒と、より多くのパトロンと、関係を結んでいくために、教師の間で、誰がよりふさわしいか、誰が本物の使徒であるか、アピール合戦が行われていたのかもしれません。
 
「私の方が神の教えを守っている」「私の方が律法を厳格に教えている」「あの人は食物規定を守っていない」「あの人は教会の暦が分かっていない」……キリストの使徒を装って、自分のアピールをするために、裁く相手、非難する相手を探してしまう教師たち……それに影響され、自分たちの間でも、律法主義に陥ってしまう信徒たち。
 
パウロがコリントの教会で援助を受けようとしなかったのは、そのようなアピール合戦から距離を取り、ただ純粋に、イエス様の教えと業を伝えるためだったのかもしれません。偽教師や偽使徒のように、権威を纏おうと人を貶め、競争することから、離れるためだったのかもしれません。
 
華陽教会で、礼拝奉仕を担ってきた方々も、自分をアピールするためではなく、純粋に福音を、神様がもたらす良い知らせを、みんなへ伝えるために働いてきました。どの時期に、どの賛美歌を歌うか、どのパンを聖餐に用いるか、牧師一人に任せるのでなく、知恵を絞って、一緒に考えてくださいました。
 
訪問礼拝の形やクリスマス演奏礼拝も、試行錯誤しながら、一緒に作ってくださいました。見えるところでの礼拝奉仕に、直接参加できない方も、電話をくれたり、手紙をくれたり、あるいは、全く隠れたところで祈りを合わせてくださいました。今日の午後にも、礼拝研修会の中で、改めて、福音を告げ知らせる働きをみんなで考えます。
 
皆さんとあずかる礼拝を通して、メッセージを語る私自身も、皆さんから、福音を告げ知らされています。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、岐阜地区で妨げられるようなことは決してありません。なぜなら、皆さんがキリストを、私たちを、愛していることを、神がご存じだからです。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。