偽りを預言させる霊【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 列王記上22:6〜9、ペトロの手紙二1:19〜2:3
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
好きな人に告白するべきか、しない方がいいか? 仕事を辞めて転職するべきか、しない方がいいか? 土地を売って引っ越しをするべきか、しない方がいいか? 様々な選択を迫られるとき、私たちも神様に、「どうしたらいいですか?」「どっちの選択が正しいですか?」と問いかけます。
ただ、はっきり神様に「こうしなさい」「ああした方がいい」と答えてもらった、示された経験のある人は、あまりいないと思います。牧師をしている私自身も、「神様、どっちを取るのが正しいですか?」「それとも、別の選択肢がまだありますか?」と尋ねることが、多々ありますが、はっきり答えを返されたことはありません。
もしかしたら、「こうしなさい」「ああしなさい」と言われているのかもしれませんが、残念ながら、私には、神様の声が頭に響いてくることも、取るべき行動を幻で見せられることも、手足を直接引かれるような感覚も、経験したことがありません。「神様は、私にこれを望んでいる」と確信して、選択できたことはありません。
後から振り返って、あのときの予感は、咄嗟の判断は、もしかしたら、神様の導きだったんだろうか?……と思うことはありますが、気のせいだったかもしれないし、自分がそう思いたいだけかもしれないし、どうも、「聖霊が降った」「神の霊に語られた」と言うのは抵抗があります。
けれども、幼いときから教会にいた私には、周りからよく言われることがありました。「困ったら、神様に祈って委ねなさい」「どうしたらいいか分からないときは、聖霊に聞くようにしなさい」……でもそれって、神様に委ねたことにはできるけど、神様がどうしてほしいか聞こえなければ、結局、最終的な選択は、自分でするしかないですよね?
どうしたらいいか聖霊に聞いても、聖霊が何と答えたのか分からなければ、やっぱり、自分で決めたことを実行する以外ないですよね? 神の霊に委ねたことにはできるけど、聖霊に聞いたことにはできるけど、本当に、言われたとおりのこと、聞いたとおりのことができているかは、分からないのが正直なところです。
皆さんはどうでしょう? 神様の声が聞こえたことはあるでしょうか? どうすればいいかはっきりと、選択肢を示されたことはあるでしょうか? 私と同様、あのときの予感は、咄嗟の判断は、神様の導きだったに違いない……と思うことはあっても、間違いなく神様がそう言った、そう選択させた……と言い切ることは難しいかもしれません。
だって、別の場面では、神様の導きだと思った選択が、悲惨な結果を招いたり、神様に祈って得られた答えだと思ったものが、間違った判断をもたらしたり、恥ずかしい経験もするからです。家庭においても、仕事においても「神様はこうすることを望んでいる」と思って突き進んだ結果、「浅はかだったな……」と後悔すること、ありますよね?
列王記上22章には、そんな悲しい典型例が載っています。かつて、アラムの王に領地を奪われ、それを取り返せずにいた、イスラエルの王アハブが、ユダの王ヨシャファトと一緒に、領地を取り返すための戦争をしかける出来事です。アハブ王は、約400人の預言者を招集して、神様にこう尋ねさせます。
「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」……すると、400人の預言者全員が、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えました。400人も預言者が集まったら、何人か偽物も混じっていそうですが、全員が同じ言葉を神様のお告げとして返したなら、信用していい気がします。
だって、400人全員が、短時間に口裏を合わせて、同じお告げを答えるって、携帯もメールもない時代、簡単なことじゃありません。それだけで奇跡のように感じます。そもそも、預言者だって戦争が始まれば、息子や孫たちが徴兵される恐れもあるわけで、国が負けたら奴隷になるか、殺されるかという恐ろしい未来も待っています。
好き好んで「戦争を始めましょう」と言いたい人はいなかったはずです。周りに流されて「攻め上りましょう」と言うにはリスクが高すぎます。おそらく、多くの預言者は本当に、神様が敵を王の手に渡してくださる……と信じて答えたんでしょう。けれども、アハブ王から一緒に戦うよう頼まれた、ユダの王ヨシャファトは、「このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか?」と問いかけます。
けっこう勇気のいる質問です。400人の預言者が、神に仕える者たちが、自信をもって「敵と戦うために攻め上れ」と言っているのに、他に預言者はいないのか? と尋ねるなんて、失礼な態度に聞こえます。400人の預言者を信じられない、彼らの告げた神の言葉を疑っている、不信仰な態度に見えてきます。
しかし、「これって本当に神の言葉?」「本当に神様が望んでいること?」という素朴な彼の疑問に対し、イスラエルの王アハブはしぶしぶ答えます。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。」
結論から言うと、このとき紹介されたイムラの子ミカヤは、一人だけ、「アラムに攻め上ったら敗北する」と預言をし、その預言は成就します。つまり、400人の預言者が語った言葉は偽りの預言で、王に誤った判断をさせることになりました。預言者なのに、自分たちの国が滅びかねない嘘をついたんでしょうか? 王の機嫌を損ねないよう、その場しのぎの預言を語ったんでしょうか?
実は、そうではありません。400人の預言者が、王に誤った判断をさせたのは、神ご自身が、アハブ王を敵の手に渡すため、ラモト・ギレアドに攻め上らせるよう、偽りの預言をさせるために、400人へ霊を送ったからです。神様が送った霊なのに、偽りの預言を語らせるって、ちょっと混乱しますよね?
本来、誤った判断をするよう唆すのは、神様が送る霊ではなく、悪魔や悪霊ではないか? サタンの類じゃないか? そう思われるかもしれません。しかし、そもそも、旧約聖書に出てくるサタンだって、人間が神様から離れていかないか、信仰を捨ててしまわないかをテストする、試そうとする存在で、神様の許しを得て、派遣される存在でした。
実際、初代イスラエル王のサウルをはじめ、神様から心が離れた王に対し、度々、その判断を唆す、神様の意志を理解できるか試しにくる、厄介な霊が送られてきました。こうして見ると、「霊が降った」「霊から直接お告げを受けた」という出来事が、必ずしも喜ばしいわけではないと分かります。
でも同時に、神様はアハブを唆す霊だけでなく、アハブに間違いを気づかせる霊も送っていました。その霊を受けたイムラの子ミカヤの言葉は、400人の預言者よりも、常に、アハブの頭から離れません。王は、他の預言者が何を言っても、結局、ミカヤが何を言うかが気になります。ミカヤの言葉が真実であると、心のどこかで分かっています。
ミカヤが他の預言者と同様、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えても、王の方から、「真実だけを私に告げてくれ」と言い返し、結局、聞きたくなかった敗北の預言を聞いてしまいます。彼は、自分から聞き出したこの言葉を拒絶しますが、戦場へ変装して出かけるほど、ミカヤの言葉を気にしていました。
そう、どこかで「違うんじゃないか」と分かっている、「それは真実ではない」と気づかせてくる霊が、自分に向かって語ってくる。預言者が、牧師が、信徒のみんなが、「神様の意志だから」「聖霊の言葉だから」と言っていても、「本当に?」と考える頭を起こしてくる。それは決して、不信仰な態度じゃないんです。
「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか?」……ユダの王ヨシャファトが問いかけたように、本当に神様はそう言っているのか、他の牧師は、他の信徒は、他の人たちは、どう言っているのか、どう受けとめているのか、聞こうとすること、確かめようとすることも、見えない聖霊の導きなんです。
かつて、周りが着々と攻め上る準備をしている中、一人だけ、攻め上らない準備をしている者がいました。それは、神の声を聞いたと思う人たちからは、不信仰で臆病な態度に見えました。けれども、攻め上る準備をしていなかったその人こそ、神様の考えていることを、最も準備した者になりました。
私たちはどうでしょうか? キリストの誕生を記念するクリスマスの準備をしつつ、イエス様が再び来られるときを待ち望む、アドヴェント第2週目を迎えた今日、もう一度、私たちがしている準備について、振り返るときを持ちましょう。そして、救い主のもたらす良い知らせを、みんなで受け取ることができるように、祈りを合わせていきましょう。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。