従わなかった者に【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ペトロの手紙一3:13〜22
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「神への服従」という言葉が、私はあまり好きではありません。と言うのも「神への服従」を口実に、無理な献金を要求されたり、長時間の奉仕を強要されたり、結局のところ神様ではなく、人や組織に服従させられた人たちから、時折、相談が入るからです。服従、忠実、従順、忠誠……これらの言葉は、現代のパワハラや虐待とも結びついています。
実際、人と人との関係や、組織との関係で「服従」という言葉がポジティブに使われることは、だいぶ減ったと思います。対等で、お互いが尊重される関係よりも、一方的で、片方に負担を強いる関係として、ネガティブに使われやすい言葉です。好んで使うには、時代遅れの印象を覚えます。
しかし、キリスト教では、神に従う者と従わない者、神に忠実な者と忠実でない者が、度々、対照的に描かれます。先ほど読んだペトロの手紙でもそうでした。神に従ったノアの家族と、従わなかった他の人々……神に従って救われた者と、従わないで捕らわれた者……後者ではなく前者になれと、繰り返し教会で語られます。
神に従う者は救われる。世の終わりに復活させられ、神の国へ迎えられる。しかし、神に従わない者は滅ぼされる。永遠の命を与えられず、神の国から締め出される。そんなふうに、脅迫的なイメージが、頭の中に根を張っています。ところが、そう簡単な話じゃないみたいです。ペトロの手紙一3章19節に、気になる言葉が出てきました。
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」……神の子イエス・キリストが、十字架につけられて死んだとき、陰府に降ったこの方の霊は、神に従わなかった者たちを訪れ、宣教しに行った。
ちょっとびっくりしないでしょうか? 神に従わなかった者、神の国から締め出された者、神の姿が見えないところに捕らえられ、閉じ込められ、死に渡されて、救いから遠ざけられたはずの者に、イエス様は自ら訪れ、宣教された。弟子の一人に裏切られ、他の弟子にも見捨てられ、人々から侮辱と嘲りを受けて殺された、その直後に、です。
イエス様が、この世で生きている者たちと居たときも、あの世で死んだ者たちを訪れたときも、声をかける相手の中に「神様に従っている」「神の子に従っている」と言える者は一人も存在しませんでした。ペトロは最後まで従うことができず、群衆は扇動されて手のひらを返し、裏切って後悔したユダは首をくくり、陰府に降って捕らわれました。
ところが、十字架にかかって、死に渡されたキリストは、陰府に降って、自ら彼らのもとへ会いに行きました。自分に従わなかった者、神に従わなかった者が、捕らわれているところへ行って宣教します。それは単に、裏切り、背いた者たちへの「勝利の宣言」などではなく、正しくない者のために、どこまでも降っていって、導こうとする言葉です。
「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」……ペトロの名が冠された手紙に、この言葉があるのは印象的です。なぜなら、ペトロもまた、ユダと同じように、神の子に従えなかった、イエス様を見捨ててしまった、明らかな間違いを犯した、正しくない者の一人だったからです。
一緒に捕らえられてもいい、一緒に殺されたっていい、私は最後までついていく!……そう言いながら、イエスの仲間か聞かれると、「そんな人知らない」と三度否定し、呪いの言葉まで吐いてしまった。死んでから三日目に復活すると三度言い聞かされていたのに、空っぽの墓も目にしたのに、イエス様が復活した知らせを信じなかった。
ペトロが「神の子に従った者」か「従わなかった者」か、どちらかは明白です。従わなかった出来事が、いくつも、いくつも出てきます。私たちと同じです。ペトロも十分わかっていました。私は正しくない者だと……正しく行動できなかったし、正しく選択できなかった。にもかかわらず、イエス様は死を越えて、私を訪れ、私のために宣言された。
「あなたがたに平和があるように」……正しくない私のことを、神のもとへ導いてくださったイエス様は、あなたのことも、神のもとへ導いてくださる。イエス様は、自分に従う者を贔屓して、従わない者を虐げるような、不健全な支配関係を築く方ではありません。むしろ、自分が虐げられても、自分に従わない者へ、手を伸ばされてきたお方です。
それは、自分さえ我慢すればいいとか、自分が傷つき続ければいいとか、相手に対する期待を捨てた、諦めの関係ではありません。自分に従わないペトロが、従う者となることを、本気で期待し、本気で信じ、三度にわたって呼びかけます。「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」
三日前に、自分を見捨てた相手です。三度予告した復活を、信じなかった相手です。ペトロはこの後も、幻を見せた神様の要求を拒否したり、宣教者パウロと仲違いしたり、キリストの教えに従えない、正しくない姿を見せていきます。そう簡単に、正しい者へ完璧に変わったわけではありません。しかし、イエス様は彼を信頼して言いました。
「わたしに従いなさい」……私はあなたを知っている。あなたがどんなに私を愛していて、私に従いたいかを知っている。たとえ、それが今すぐできなくても、また私から離れても、私はあなたのために祈り、あなたのもとに聖霊を送り、あなたを新しくし続ける。わたしはあなたと共にいる。
ペトロの近くにいた人間なら、誰だって知っています。彼が、あの有名な、キリストを三度否定した弟子であると。最後まで従おうとして、従えなかった人間だと。約束を守れなかった、正しくなれなかった使徒であると。けれど、正しくないまま、従えないまま、放置された人でもありません。みんな知っています。
従わなかった者に、キリストは気づきと励ましを与え、変化と回復をもたらし、自分の弟子として、証し人として、期待し、頼り、付き合い続けた。その力は、「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」全てに向かって働きかけます。生きている者も、死に渡された者も、信じない者から信じる者へ、手を取って起こされる者へ変えられます。
だから、私たちの抱いている希望について、説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていましょう。罪人を罪人のまま、正しくない者を正しくないままにしておかず、ありえない変化と回復をもたらす方が、あなたのことも、新しく生きる者へと変えられることを伝えましょう。キリストの平和が、あなたがた一同にあるように。アーメン。
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