家庭を覆す教え【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テトスへの手紙1:10〜16
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
初期のキリスト教会は、今のように、誰でも聖書を読めるわけではなく、教義や教理をネットで見られるわけでもなく、教えについて書かれた本さえ、まだほとんどありませんでした。あったとしても、母国語に翻訳されているとは限らず、母国語で読めても、文字が読めるということ自体、一部の人に限られていました。
当然、牧師や司祭を輩出する神学校があるわけでも、聖書に出てくる言葉の意味や文脈について、説明された注解書が、手に入ったわけでもありません。4つの福音書とパウロの手紙、それらに続く弟子たちの手紙も、まだ新約聖書として、まとめられてもいませんでした。
それもあってか、初期の教会では、様々な、怪しい教えを語る教師が現れました。キリスト教の教えを聞いて、魔術や呪術と結びつけ、人々に広めてしまう者もいれば、当時、流行っていた外国の思想や、哲学の教えに合体させて、伝えてしまう者もいました。あるいは、ユダヤ人の中で、根強く残っていた律法主義に、再び陥ってしまう人もいました。
そのため、宣教者パウロと、パウロの教えを受け継ぐ後代の弟子たちは、度々、手紙を書き記し、各地の教会へ送っては、異なる教えに注意を呼びかけ、具体的な指導を行いました。その言葉には、けっこう辛辣なものも含まれます。先ほど読んだ、テトスへの手紙1章10節以下の言葉もそうでした。
「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者が多いのです」……こういうふうに、誰が批判されているのか特定できそうな記述を見ると、こっちもドキッとさせられますよね? ちなみに「割礼を受けている人たち」は、たいていの場合、ユダヤ人のキリスト教徒を指しています。
「その者たちを沈黙させねばなりません」と強い言葉が続くので、いったい彼らは何をしたのかと、思わず気になってしまいます。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆したと、糾弾されていました。「教えてはならないこと」と言えば、ユダヤ人にとって、律法で硬く禁じられた、魔術や呪術を思わせます。
実際、いくつかの注解書にも、この表現は「魔術を思い起こさせる」と書かれており、病の癒しや貧困からの解放を求める人たちに、お金を取って、呪術的な儀式や、魔術的な知恵を教えていたように思われます。「家庭を覆す」「家庭を壊す」という記述を見ると、今でいう霊感商法や霊視商法のようなものが、キリスト教の教師を装って、行われていたのかもしれません。
驚かされるのは、そのような「教えてはならないこと」を教えている人たちに、最近、神様を信じるようになった、異邦人のキリスト教徒でなく、「割礼を受けている人たち」、ユダヤ人のキリスト教徒が多かった……と書かれていることです。本来、ユダヤ人は、そういった魔術を禁じている神の掟、律法を大事にしているので、これはなかなか意外です。
でも、よく考えてみると、使徒言行録19章に、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちが描かれており、エフェソに住むユダヤ人の中にも、魔術を行っていた者が含まれていたように捉えられます。また、魔術と同じく、厳しく禁じられていた「偶像礼拝」も、毎回イスラエルの外から、外国の信者から、もたらされたわけではありあせん。
イスラエル人が、自分たちを奴隷にしていたエジプトの国から脱出し、神様に約束されたカナンの地へ行く途中、金の子牛の像を作って礼拝したのは、異教徒に勧められたからではなく、彼ら自身が、すすんでやってしまったことでした。偶像礼拝は異教徒との接触によって入ってきた……と思われがちですが、ユダヤ人の内部から広がったこともあったんです。
皮肉なことに、そのような、広めてはならないことを広めている、教えてはならないことを教えている人間から、次のような言葉が語られます。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ」……預言者を自称する、ユダヤ人のキリスト教徒がそう言ったと言われていますが、他人のことは言えません。自分たちを棚に上げています。
一方で、手紙の著者は、「この言葉は当たっています」とも告げています。ちょっと差別的に感じますよね。古代において、クレタ人に対し、ギリシア人が悪口を言うのは、一種の慣例であったとも言われていますが、それに乗っかって、「あいつらは、ギリシア人からも言われているように、タチが悪い奴だから、厳しく戒めて、管理しよう」といった指導をするのは、特定の民族に対する偏見を助長しています。
ここでも、先週に引き続き、手紙の著者の「非難される点」が見つかってしまいました。手紙の宛先として、名前が書かれているテトス自身、クレタ人に悪口を言いがちなギリシア人だったことが関係しているのかもしれません。そうだとすれば、ギリシア人のテトスと、クレタ人の会衆は、折り合いをつけるのが、最初は難しかったでしょう。
しかし、ここでは、ユダヤ人のキリスト教徒にも、クレタ人のキリスト教徒にも、人を惑わす者、その惑わしに便乗する者が、多くいることを警告し、いずれの背景を持っていても、気をつけるべきことが書かれています。そして、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないよう、厳しく戒めて、信仰を健全に保たせるよう促されます。
「ユダヤ人の作り話」というのは、テモテへの手紙一1章4節にも出てきたように、「無意味な詮索」や「無益な議論」「空論」に迷い込ませてしまうもので、今でいう「陰謀論」に近かったかもしれません。現代でも「キリストの生まれ変わり」や「現代の使徒/預言者」を自称して、その正当性を聖書の系図や記述から、無理やりこじつけている人がいますが、初代教会でも似たようなことがあったのでしょう。
陰謀論に巻き込まれた家庭がボロボロになっていくのを見ると、確かに「家庭を覆す」「家庭を壊す」教えの怖さが分かります。私たちは、あらゆる問題の原因と解決の方法を示してくれる「全ては○○のせい」「○○すれば全て解決」という教えに弱いので、シンプルで、特別な秘密を教えてくれる、教師や先生に、ついつい惹かれてしまうんです。
また、「真理に背を向けさせる者の掟」というのは、具体的には、旧約聖書に出てくる、「清めの規定」を遵守させる内容だと思われます。旧約聖書の律法では、祭儀的に汚れたものや、汚れた行為が定められ、食べてはならないもの、触れてはならないものが細かく決められていました。
それらをずっと守ってきたユダヤ人と同じように、異邦人の改宗者も守らなければ、救いにあずかることはできない……と厳しく断じる人たちがいました。もしかしたら、「今降り掛かっているあなたの不幸は、これらの掟を、しっかり守らなかったからだ」「私と同じようにしないと、もっと大変なことになる」と、コントロールする人たちがたくさんいたのかもしれません。
しかし、使徒言行録15章でも報告されているように、「異邦人にも割礼(男性の包皮の一部を切り取る儀式)を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ!」という主張は間違っており、ただ「主イエスの恵みによって救われる」と信じるべきことが告げられています。
実は、「こういった規定を守らなければ救われない」と主張する人たちは、神を知っていると公言しながら、その行いは、どこまでも自分が救われるためで、神様の求めた隣人愛の実践とは、程遠いものでした。自分が安心するため、大丈夫だと思うために、他人を裁き、不安にさせる人たちを、手紙の著者は、厳しく非難しています。
「家庭を覆す教え」「家庭を壊す教え」に関しては、一方で、人々の関心を惹き、コントロールに都合が良いため、今でも一部の教会で、使われてしまうことがあります。しかしそれらは、信仰を健全に保たせるどころか、人を惑わし、恥ずべき利益に呑み込まれる、良くない教えです。
正体や目的を隠した勧誘、霊感商法、霊視商法、高額献金などの問題が、宗教界で、大きく取り上げられるようになってから、約2年が経ちました。今こそもう一度、牧会書簡をはじめ、初代教会が直面し、向き合ってきた問題を思い起こし、健全な教えと、誠実な信仰継承とは何か、私たちも問いかけながら、向き合っていきたいと思います。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。