死なないうちに【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネによる福音書4:46〜54、使徒言行録9:36〜43
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
ヤッファという町で、一人の女性が亡くなりました。名前はタビタ、「かもしか」という意味のヘブライ語で、ギリシャ語では「ドルカス」と呼ばれていました。ヘブライ語を話す人からも、ギリシャ語を話す人からも慕われていたんでしょう。彼女はイエス様の弟子で、たくさんの善い行いや施しをしていました。
当時珍しい階上の部屋、二階のある家に住んでいたので、たいぶ裕福な家庭です。けれども、有り余る財産で、何の苦労もなく施しをしていた人ではありません。みんなのために、自ら手を動かして、下着や上着を作り、惜しみなくそれを分け与えるような人でした。彼女が病気になって死んでしまうと、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置しました。
ちょうどその頃、18kmほど離れたリダという町に、イエス様の弟子であるペトロが訪れていました。ペトロは8年間、体が麻痺して動かなかった女性と出会い、「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言って、起き上がらせた直後でした。町一帯に、彼が病気を癒した話が広まります。
すると、そのことが、タビタの家に集まっていた仲間の耳にも入りました。彼女たちは2人の使いを送って「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼みます。ペトロが到着すると、遺体の置いてある階上の部屋へ案内され、夫を亡くした女性たちが、泣きながら、タビタの作ってくれた下着や上着を見せてきました。
どれだけ、自分たちがお世話になった人なのか、愛してやまない人なのか、思い出の品を見せられながら、ペトロは次々と聞かされます。この女性たちは、タビタのことをドルカスと呼んでいたので、ギリシャ語を話す外国出身のユダヤ人か、ユダヤ人でない外国人の未亡人だったのでしょう。
教会ができてすぐの頃、夫を亡くした女性たちは、当時の社会で、生活する術がなかったため、教会に集まった会衆から、食事や日用品を分けてもらって暮らしていました。しかし、ヘブライ語を話すユダヤ人の未亡人に比べ、ギリシャ語を話すユダヤ人や、ユダヤ人でない外国人の未亡人は、軽んじられる傾向にありました。
そんな中、ドルカスと呼ばれる女性は、蔑ろにされてきた、ギリシャ語を話す未亡人のため、着物を作り、食事を分け、心を尽くしてきたようです。誰もが、彼女の病気が治るよう必死に祈っていたでしょう。医者や薬を探し回って、何とか治そうとしたでしょう。死なないうちに、彼女を助けられる人を呼びたくて、走り回っていたでしょう。
けれども、隣の町に、ペトロが来ていると聞いたときには、既に、ドルカスは息を引き取り、遺体を清める作業も終わっていました。もう、手の施しようがありません。急いでペトロに来てもらっても、彼女の命は尽きています。彼女の仲間たちは、いったい何を期待して、急いでペトロに来てもらい、彼女の作ってくれた下着や上着を見せたんでしょう?
「見てください。ドルカスが私たちにしてくれたことを。どうか彼女を憐れんでください。彼女を私たちへ返してください」そんなふうに、生き返らせることを求めたんでしょうか? 確かに、「遺体を安置した階上の部屋へ案内する」という行為は、神に遣わされた預言者が、階上の部屋で、亡くなった人を生き返らせた出来事を思い出させます。
もしかしたら、ペトロに対し、預言者がしたのと同じことを期待したのかもしれません。しかし、もっと現実的な見方をすると、急いでペトロを呼んだのは、イエス様と行動を共にしてきた彼に、彼女の葬儀を頼みたかったからかもしれません。清めた遺体が腐る前に同じ信仰を持つ人の手で、しっかり見送ってあげたい……そう思ったのかもしれません。
実際、亡くなった人の思い出の品を見せながら、故人がどんな人だったのか話される……というシーンは、牧師が葬儀を依頼されたとき、度々見られる光景です。どちらかというと、清めた遺体を葬る前に、式を執り行う人間へ、亡くなった人がどんな人間か伝えるために、彼女たちは、ドルカスの作ってくれたものを見せてきたのかもしれません。
本当は、死なないうちに、ペトロに来てほしかった。でも、死んでしまった今となっては、見送ることしかできないから、せめて、遺体が綺麗なうちに、大切な思い出を共有しよう。生きている間は、間に合わなかったけど、葬りの式は、彼女を囲めるうちに行おう……。
ところが、ペトロはみんなを部屋から追い出し、遺体と自分だけになって、ひざまずいて祈り始めます。急に部屋から追い出された人たちは、かなり戸惑ったことでしょう。まだ泣いているのに、思い出を語っているのに、急に遺体から引き離されて、外へ出るよう言われるんです。
むしろ、よく揉めることなく、部屋から出ていったなと思います。清めたばかりの、大切な人の遺体です。何をされるか分からないのに、外に出されて待っているなんて、けっこう不安だったと思います。けれども、やもめたちは、何が起きるのか分からないまま、中を見ることができないまま、ペトロを信じ、部屋の外で待っていました。
普通の葬儀とは、全然違います。それもそのはず、ペトロが始めたのは、埋葬の式ではなく、彼女を起こすための呼びかけだからです。「タビタ、起きなさい」……かつて、イエス様が亡くなった人にかけた言葉を、ペトロも呼びかけます。すると、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。
ペトロは、彼女に手を貸すと、部屋の外にいるみんなを呼んで、やもめたちのところへ返してあげました。泣いていた女性たちは、喜んで彼女を迎え、驚きながら、この出来事を伝えたでしょう。やがて、このことはヤッファの町中に知れ渡り、多くの人が、神様を、イエス様を信じるようになりました。
最初に読んだ、ヨハネによる福音書にも、死にかかっている息子のために、助けてくれる人を呼びに行った、父親の話が出てきました。彼は、カファルナウムにいた王の役人で、ユダヤ人からはローマ帝国の傀儡として、歓迎されない存在でした。その彼が、不思議な業を行っていたイエス様を頼りにやってきます。
彼は、ガリラヤのカナでイエス様に出会うと、カファルナウムまで下って来て、息子を癒してほしいと頼みました。けれども、イエス様は役人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言います。息子を助けて欲しくて、藁にもすがる思いで訪れた父親は、急いで家まで来て欲しくて、こう返します。
「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」よく見ると、もういっぱいいっぱいで、イエス様を信じているかどうかは答えていません。イエス様が何者だと思っているのか、本当に病気を癒せると思っているのか、彼は正面から答えません。実は、分かっていなかったのかもしれません。
イエス様が何者かはよく分からないけど、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えた話や、サマリア人の女性のことを全て言い当てた話を聞いて、この人なら何とかしてくれるかもしれない……と必死にすがり付いたのかもしれません。けれども、イエス様は、信じるかどうか答えない父親に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言って帰されます。
すると、役人は、イエス様の言った言葉を信じて帰って行きました。サラッと書いてありますが、よくそのまま黙って帰れましたよね? 普通は、適当言って追い返されたと思います。蔑ろにされたと思います。死にかけの息子を見てもいないのに、触れてもいないのに、「生きる」とだけ言われて帰されても、癒してもらえたとは思えません。
ところが、この父親は、離れたところにいる息子が、どうなったのか分からないまま、その姿を見られないまま、信じて家へ帰って行きます。「息子は生きる」……これも、現実的な見方をすると、この時点で「息子が癒された」と信じたというより、「息子はまだ死なない」「きっとまだ死なない」くらいの気持ちだったかもしれません。
ここで、悪戯に時間を費やすよりも、早く帰って一緒にいよう。イエス様に来てもらうことはできなかったけど、我が子と一緒にいる時間を精一杯作っていこう……ところが、カファルナウムまで下っていく途中、僕たちが迎えに来て、息子が生きていることを告げてきます。しかも、「まだ死んでない」のではなく、熱が下がって治ったことを伝えます。
それはちょうど、イエス様から「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻でした。あの時の言葉は、自分を追い返すための言葉ではなく、自分の願いを受け入れて、救いを宣言された言葉でした。家に帰った父親は、このことを息子と妻にも話し、イエス様を直接見てない2人も、一緒に信じる者となりました。
死なないうちに、息子のもとへ、イエス様を連れて来たかった役人と、死なないうちに、タビタのもとへ、ペトロを連れて来たかった女性たちは、どちらも、最初の願いは叶いませんでした。死なないうちに、生きている間に、出会わせることはできませんでした。私たちも、同じような経験をします。
夫が、妻が、死なないうちに……親が、兄妹が、死なないうちに……イエス様と出会わせたい、教会へ連れて来たいと思っても、叶わなかった人たちがたくさんいます。信じていたのに、教会で葬儀を挙げられなかった人、みんなで見送れなかった人たちがいます。最初の願いは、叶いませんでした。
しかし、イエス様はこの人たちに「起きなさい」と呼びかけます。私たちに「あなたの息子は、娘は、大切な人は生きる」と言われます。もう手遅れと思う私たちに、間に合わなかったと思う私たちに、新しい命をもたらすキリストは、既に新しいことが芽生えていることを知らせます。行って、あなたも悲しんでいる者たちへ良い知らせを伝えなさい。
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