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ここにいないということは?【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書24:1〜12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》ここにいないということは?

亡くなった人の遺体が消えていた。墓の入り口を閉ざしていた石は転がされ、穴の中には何もなく、遺体を包んでいた布だけが残されていた。イエス様の墓参りにきた女性たちと同じ現場に遭遇したら、皆さんは何が起きたと考えるでしょうか? おそらく、最初に頭をよぎるのは墓荒らしが行われた可能性でしょう。
 
当時のユダヤ社会では土葬が一般的でした。死者と一緒に埋葬された貴重品があるかもしれない。故人に着せられた衣服や指輪が手に入るかもしれない。そんな不埒なことを考えた盗人が、墓を暴いてしまった可能性は十分考えられたでしょう。けれども、女性たちが墓の中を確認すると、盗人が持ち去るはずのない、遺体そのものも無くなっています。
 
次に思い浮かぶのは、故人を憎んでいた人が、遺体を荒らしにきた可能性です。救い主として遣わされたイエス様は、あちこちで病人を癒し、教えを語り、ついてくる人が多くなるにつれ、祭司長や律法学者から妬まれるようになっていました。彼らのようにイエス様と対立していた人が、墓を暴いて危害を加えようとしたのかもしれません。
 
けれども、それなら遺体が傷付けられることはあっても、持ち去られることはありません。また、死体に触れた者は、律法で、祭儀に出ることをしばらく禁じられたため、律法学者や祭司長が、わざわざ処刑されたイエス様の遺体を持ち去ることは、余計に考えにくいことでした。
 
最後に思い浮かぶのは、一番考えたくないことでしょう。強い恨みや後悔から、死者が幽霊となって、墓から出てきた可能性です。イエス様は、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、無実の罪で殺されたため、幽霊になってもおかしくないと思われる理由が十分過ぎるほどありました。また、亡くなった後の扱いも、死者が恨みを抱きそうな現状でした。
 
イエス様が十字架につけられて亡くなったのは、安息日が始まる直前の午後3時くらいです。3時間後には「仕事をしてはならない日」と定められた土曜日を迎え、葬儀や埋葬をすることもできなくなります。そのため、イエス様の遺体は、ほとんど手付かずのまま、穴の中に納められてしまいました。そして、三日間放置されます。
 
イエス様は十字架につけられる前、困っている人や苦しんでいる人のため、度々、安息日の掟を破っていました。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(マルコ2:27)」と言って、病人を癒し、空腹の人を食べさせていました。けれども、そんなイエス様のために、安息日の掟を破って弔いをする者はいませんでした。
 
他の弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げる中、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母をはじめとする女性たちは、イエス様が墓に納められるまで見届けましたが、誰も安息日の掟を破って、遺体を整えには来ませんでした。遺体を放置すれば、どんどん傷んでいくのは分かっていましたが、三日間、誰も墓へ行きませんでした。
 
ようやく、週の初めの日、明け方早くに墓へやってきた女性たちは、転がされた墓石と空っぽになった墓穴を見て、途方に暮れました。一刻も早く、遺体を整えて、まともな埋葬をしてあげたいのに、どこにもイエス様の体が見当たりません。どうやら、何かが間に合わなかったみたいです。掟に縛られてすぐ墓へ来なかったことが悔やまれます。
 
遺体が荒らされたにせよ、盗まれたにせよ、幽霊となって出ていったにせよ、もう取り返しがつきません。イエス様が処刑されるのに、何もできなかった。せめて、香料と香油を塗ってあげようと思っていたのに、それさえできなかった。生きているときも、死んだあとも、この人のためにちゃんとできなかった。もう何かしてあげることはできない。
 
そう、彼女たちにとって、イエス様が「ここにいない」ということは、決定的な断絶に見えました。コロナ禍で入院した家族と、ろくに会えないまま見送った人が、葬儀と埋葬も思っていたようにはできず、途方に暮れてしまった日々があったように、イエス様を見送った女性たちも、途方に暮れていました。最悪だ、もう何もできない……と。
 
けれども、そのとき輝く衣を着た二人の人がそばに現れて言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」……それは、イエス様が三日目に復活すると言っていたことを思い出させる言葉でした。
 
イエス様が「ここにいない」ということは、あなたとこの方の関係が、終わったことを意味しない。この方が、あなたから離れたことを意味しない。この方は、あなたの家へ帰ってくる。もう何もできないのではなく、これから迎えることができる。あなたが家で迎えることができるように、この方は墓から出ていった。
 
彼女たちは、すぐに墓から帰って、イエス様の弟子たちとほかの人皆に一部始終を知らせました。弟子たちは、たわ言だと思って信じませんでしたが、ペトロは立ち上がって墓へ走り、確かに遺体がなくなっていることを、ここにいないことを認めました。驚きながら、帰っていった人たちの家は、復活したイエス様を迎える場所になりました。
 
今日は、墓を見に行った人たちが「ここにいない」イエス様を迎える家へ、帰っていった日です。教会には、救いを求めて色んな人たちがやってきます。ここへ来たら、神様のことが分かるんじゃないか? ここで、救い主と出会えるんじゃないか? そう思って、礼拝へ参加し、聖書を開き、祈りを合わせる人たちが集まってきます。
 
しかし、多くの人は、ここでイエス様を見つけられません。ここで神様を見ることはできません。試しに礼拝へ来てみても、聖書の言葉を聞いてみても、自分には神様が分からない……そばにいるイエス様が分からない……聖霊を感じることができない……と思って帰っていきます。ここにいないということは、どこにいるんだろう……と思いながら。
 
けれども、ここでイエス様を見ることができなかったあなたの家へ、イエス様はやって来ます。復活を信じられなかった、約束を思い出せなかった弟子たちのもとへ、イエス様は姿を現しにきます。これまで、洗礼を受けた人たちも、ここにいないイエス様と、思ってもみないとき、思ってもみない場所で出会い、信じる経験をしてきました。
 
今日、また新たに、イエス様と出会った人が信仰を告白し、洗礼を受けます。期待した時、期待した場所で、イエス様を見ることができず、途方に暮れた者の一人が、あの日、あの時、どこにいるのか分からなかったイエス様と、出会えたことを告白します。ここにいないと思っていたイエス様は、私の家へ来るために、ここを発っていたんだと。
 
ここでイエス様を見つけられなかった人たち。自分はもう、神様との距離が開きすぎて何もできないんだと思った人たち。空っぽの墓を覗いたような、途方に暮れる気分になった者……あなたがここで、イエス様を見つけられなかったのは、あなたが帰っていった家で、イエス様を迎えるためです。あなたは救いから離れたのではありません。
 
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」……その証人となる者が、新たな証し人となる者が、今日、私たちの群れに迎えられます。共に、この人の告白を受けとめ、私たちも自らの信仰を証しして、喜びを分かち合いましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。