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お話し中に眠ったら【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書7:11〜17、使徒言行録20:7〜12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

週の初めの日、宣教者パウロの話を聞いていた青年が、ひどく眠気を催し、3階の窓から落ちて死んでしまった。笑い話のように聞こえますが、もちろん現実には笑えません。週の初めの日と言えば、日曜日です。日曜日に、パンを裂くために集まると言えば、キリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式、礼拝に集まるということです。

つまり、まだ若い青年が、日曜日に礼拝へ来て、教会の窓から落ちて死んでしまった、若者が、牧師の話を聞いている間に亡くなった、という話です。華陽教会も2階の部屋、階上の部屋で聖書を開き、賛美を歌い、祈りを合わせて礼拝していますが、ここから誰か落ちて死んだとなれば、礼拝どころではありません。

原因は単純です。翌日出発する予定なのに、パウロが夜中まで、長々と話を続けたからです。何時に始まったのかは分かりませんが、深夜まで話が続いたら、誰だって眠くなるに決まっています。真面目に聞いてないとか、信仰が足りないとか、そんな次元じゃありません。誰もが眠くなって当然の状況で、青年は眠りこけ、窓から落ちてしまいました。

もちろん、窓に腰をかけていたのはよくなかったでしょう。しかし、パウロは翌日この街から出発し、居なくなる予定でした。大勢の人が、最後に話を聞こうと集まって、挨拶に来ていたでしょう。部屋の中はいっぱいだったはずです。一人でも多く人が入れるように、青年が窓に腰をかけ、席を譲ってあげたとしたら、そう簡単に責められません。

悲劇としか言いようのない事件でした。青年が窓から落ちたのを見ると、パウロはすぐに1階へ降り、彼のもとへ駆け寄ります。しかし、起こしてみると、もう死んでいました。あっさり書いてありますが、はっきり死んでいたことが告げられます。エウティコという青年の名は「運がいい」という意味でしたが、ここでは運がなかったようです。

次に期待されるのは、パウロが青年に何か呟き、彼を起こして生き返らせることです。パウロが信じて従うようになったイエス様も、ナインの町で亡くなった青年に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言って、生き返らせました。パウロと同じく、イエス様の弟子であるペトロも「タビタ、起きなさい」と言って死んでいた女性を生き返らせました。

けれども、パウロはいっこうに青年を起こす気配がありません。彼に向かって、「起きなさい」と呼びかけません。ただ、周りの人に向かって、「騒ぐな。まだ生きている」と言うだけです。そして、何事もなかったかのように、また上へ行って、パンを裂き、夜明けまで話し続け、そのまま出発してしまいました。

青年はどうなったのか、気になる私たちに、聖書は淡々と伝えます。「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」……いつの間にか、生き返っています。まるで、ただ気を失っていた人間が、朝になって目が覚めたかのように、あっさり、青年は帰ってきます。しかし、確かに彼は、昨晩起こしたときには死んでいました。 

不思議な話です。いつ生き返ったのか、どうやって復活させたのか、何も分からないまま、気がつくと青年は起き上がっていました。パウロも出発していました。死者が甦る奇跡なのに、その奇跡がいつ、どうやって起こされたのか、何一つ描かれません。むしろ、パウロは最初から、青年が死んではいないかのように行動します。

「騒ぐな。まだ生きている」……自分が最初に抱き抱え、死んでいるのを確認したにもかかわらず、周りから見ても死んでいるようにしか思えないのに、パウロは青年が「生きている」と言いました。「死んでいない」と言いました。そういえば、かつてイエス様も、ヤイロの娘が亡くなったとき、言いました。

「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」……そのとき人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエス様を嘲笑いました。けれども、イエス様が「娘よ、起きなさい」と呼びかけると、彼女は目を覚まして起き上がりました。いずれも、死によって、イエス様との関係が、信じているものとの関係が、否定されそうなときでした。

信じていたのに死んでしまった、聞いていたのに眠ってしまった、起きなきゃいけないのに起きれなかった……そんなとき、私たちは度々耳にします。信仰が足りなかったんだ、祈りが足りなかったんだ、心が離れてしまったんだ……けれども、神の子であるイエス様は、その断絶を否定します。死んだのではない、この人と私との関係は続いているのだ。

もう一つ、「眠り込んだ者」と「死」の話で、連想される出来事があります。それは、イエス様が十字架にかかって殺される前夜、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけ連れて、オリーブ山で祈ったときの話です。イエス様は、自分が十字架にかかって死ぬ日を前に、汗を血の滴るように落としながら、苦しみもだえて、切に祈っていました。

しかし、そのとき離れたところで、一緒に祈っているよう頼まれた弟子たちは、「誘惑に陥らぬよう祈りなさい」と言われていたにもかかわらず、眠り込んでしまいました。福音書によっては、一度ばかりでなく、三度にわたって、弟子たちが眠りこけてしまったことが書かれています。

まさに、イエス様との関係が、信じているものとの関係が、死んでしまう、失われてしまうことを象徴するような出来事でした。しかし、イエス様は眠りこけた彼らを起こし、最後まで自分と一緒についてくるよう呼びかけます。彼らが裏切って、見捨てて逃げてしまった後にも、復活して、再び現れ、もう一度「わたしに従いなさい」と呼びかけます。

彼らとの関係を「死んだまま」「眠ったまま」にはされませんでした……パウロも知っていました。自分がイエス様の教えと業を語っているときに眠りこけ、死んでしまったこの青年は、イエス様との関係が切れたわけでも、失われたわけでもないことを。自分に現れてくれたイエス様が、この青年にも現れて、手を取って起こしてくださることを。

だから、彼は再び上へ上がって、夜明けまでイエス様について語ります。かつて、イエス様から離れていた自分が、イエス様に呼びかけられて、この道へ帰ってきたことを伝えます。この青年も、イエス様から見放されたわけではなく、今まさに、イエス様から「起きなさい」と呼びかけられ、自分と同じように、新しく起こされることを語ります。

「お話し中に眠ったら」……もしかしたら、メッセージのタイトルを聞いて、ドキッとした方もいるかもしれません。自分も度々、礼拝の途中で、メッセージの途中で眠ってしまう。起きてられなくなってしまう。そのことを怒られるんだろうか? 信仰が足りないと、熱心さがないと、責められるんだろうか?

安心してください。イエス様は、信じているのに眠ってしまう、体が倒れてしまう人とも、自分との関係は続いていると言われます。私とあなたとの関係は切れていない、死んでいない、失われていない、と語ります。あなたが眠っていても呼びかけられ、「起きなさい」と手を取って、新しく生きるための力をもたらします。

たとえ今、私の話を聞いている間に寝てしまうことがあっても、目を開けていることができなくなっても、あなたとイエス様との関係は死にません。パウロが話している間に、青年がイエス様によって生き返ったように、私の話が聞こえなくなっても、イエス様の声は、あなたを内側から起こし、新たに立たせてくださいます……さあ、起きなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。