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すべてをご存知の主【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》マタイによる福音書6:5〜8
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
皆さんがいつ、どこで、何を祈っているのか、私には分かりません。毎日欠かさず、祈りをささげている人もいれば、日曜日以外、ほとんど祈らない人もいるかもしれません。心の中では祈るけど、口に出して祈ったことがない人もいるでしょう。人前で祈ることを避けてきた人もいるでしょう。理由は色々あります。
自分が祈っているところを家族や知り合いに見られたら恥ずかしい。神様に祈っていることを馬鹿にされないか心配になる。もしくは、祈りが拙いのを見られたくない。たどたどしく、言葉がまとまっていない願いや感謝を人に聞かせたくはない。あるいは、ただ単に、祈る習慣がそこまでない、祈ろうと思うことがそんなにない人もいるでしょう。
おそらく、毎日祈る習慣がある人でも、人前で声に出して神様へ祈ることは、できれば避けたい人が多いのではないでしょうか? 牧師をしている私だって、そんなに得意ではありません。その場で祈るよう急に言われて、頭が真っ白になることもあります。「この人、即席で祈るのに慣れてないな」と思われないか、心配になったりもします。
だからこそ、聖書に出てくるような「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」人なんて、今時いるんだろうか? と思わされます。だってそうでしょう? 柳ヶ瀬通りの角に立って、突然祈り始めたら、信仰深い人というより、不審者に見られてしまいます。善行をしている人というより、迷惑をかけそうな人に見えてきます。
教会の中でも、みんなの前で、自分から祈ろうとする人は、なかなかいません。礼拝や集会のお祈りを牧師が誰かに頼んでも、ことごとく断られてしまうという光景も、全国の教会で、そんなに珍しくありません。大半の人は目立ちたくないし、人前で祈ることに自信がありません。変な祈りや、拙い祈りをする姿が、さらされたくないと思っています。
どうやら、イエス様が指摘するような「偽善者」に、私たちは当てはまらずに済みそうです。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われるまでもなく、私たちは人に見られないところで祈ろうとします。あまり変に見られない、好奇の目にさらされないところで祈ります。
ただそれは、結局のところ、周りの人に「まともな自分」を見てもらいたいという動機に基づく姿勢です。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」……古代イスラエル社会では、それが人から「良く見られる」ための手段でした。信仰深く、正しい人に見られるための方法でした。
現在は、人前で声に出して祈ったり、急に手を合わせたり、目立つようなことをしないことが、人から「良く見られる」ための手段です。教会でも、変な祈りをしてしまったり、拙い祈りをしてしまう自分を見せない方が無難です。誰かが自分の祈りを聞いて「信仰が弱い」とか「そんな祈りじゃ聞かれない」とか、言ってくるかもしれません。
ところが、イエス様は言うんです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と……神様は、あなたの祈りを聞いて、あなたを品定めしたり、誰かと比較したりする方ではありません。どんな祈り方であっても、あなたの願うもの、あなたに必要なものをご存知です。
言葉数が多くなくても、格調高い祈りでなくても、シンプルで短い祈りでも、あなたの願いを神様はちゃんと受けとめます。あなたが口に出せなかった、形にならない願いさえ、期待さえしない未来さえ、神様は全てご存知で、あなたの祈りから受けとめます。あなたがささげた以上のことをその御心に受けとめます。
別に、みんなのいる前で、大声を出して祈る必要はありません。殊更に祈っていることをアピールする必要はありません。言葉数を多くして、長く祈る必要はありません。まとまらない、拙い言葉でもかまいません。何もかも網羅した祈りでなくてかまいません。神様は、あなたの願いを全て知ってくださいます。その祈りを軽んじることはありません。
時には、祈れないことも出てきます。全く祈る気持ちになれない、嘆きや怒りばかりに囚われることも出てきます。ですが、神様に向ける嘆きや怒りも、神様が受けとめるとき、祈りになります。たくさんの人が神様にぶつけてきた嘆きが、詩編や哀歌となって、聖書に収められました。神様に向かって嘆くことも、怒ることも、立派な祈りです。
時には、ある人のために祈れないことも出てきます。自分を傷つけ、身内を蔑ろにした相手が困っているとき、とんでもない過ちを犯している政治家が、問題を起こしているとき、私自身も、その人のために祈ることができません。腹が立ち、苦しくなり、優しい願いを向けられません。和解を願うことさえ難しくなります。
しかし、神様は全てご存知です。あなたに必要なものをご存知です。あなたが祈れないことも、神様は一緒に受けとめてくださいます。教会は、私が祈れないことを誰かが祈って、誰かが祈れないことを私が祈って、互いにとりなし合う場所です。あることが祈れないからと言って、あなたの祈りを無碍にする方はおられません。
全てをご存知の主がいます。願う前から、訴える前から、あなたのことを知っておられる方がいます。あなたが隠れたところにいるときも、人から見てもらえないときも、怖くて、辛くて、分からなくて、誰かに言えないあなたの願いを聞いてくださる方がいます。どうか、その方を信頼して、あなたの心をささげてください。
あなたの手が、神様の愛と平和で満たされますように。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。