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わたしは命のパンである【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 出エジプト記16:13〜16、ヨハネによる福音書6:34〜40

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

華陽教会では、月に一回、信仰を告白した人が、信仰者であり続けるための式、聖餐式を行っています。聖餐式とは、神の子であるイエス様が、全ての人を救うために十字架にかかり、3日目に復活したことを記念して、パンと葡萄液をいただく式です。その式では毎回こんな言葉が読まれます。
 
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」……まさに今日、聖書朗読で読まれた、イエス様の言葉です。日々、パンを手に入れるのに苦労して、いつ、食べ物が得られなくなるか心配している人たちに、イエス様が語った言葉です。
 
「先生、私たちの先祖が、荒れ野で飢えているときに、モーセが神に祈って、天からのパンを与えられたように、わたしたちにも、今後飢えることがないように、天からのパンを与えてください」……群衆の一人がそう願ったのは、前日に、イエス様が大勢の群衆のために、数少ないパンを増やして、みんなのお腹を満たす奇跡を行ったからです。
 
5千人を超える人々が集まっていたのに、5つのパンと2匹の魚で、全ての人を満腹にした、あの有名な奇跡を行った直後でした。彼らは、イエス様の指示で、残ったパン屑を籠いっぱいに集めているとき、かつて、荒れ野を旅した先祖たちが、天からのパンを毎朝籠で集めていた話を思い出したでしょう。
 
あの時の奇跡が、私たちの時代にも起こされた。かつて、自分たちの先祖が、荒れ野を旅している間、飢える心配のないように、毎日天からのパン「マンナ」を与えられたように、この前、奇跡を起こしたイエス様も、毎日私たちのためにパンを与えてくれるんじゃないか? もう飢える心配は、生活の心配をする必要は、ないんじゃないか?
 
ところが、そう期待する人々に、イエス様は、その場でパンを増やして見せたり、天からマンナを降らせて見せたりはしませんでした。代わりに「わたしが命のパンである」と言ってきます。もう、天からのパンはあなたたちに与えられている。わたしがそれだ……わたし自身が、あなたたちを生かし続ける「まことのパン」だと言ってきます。
 
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」……聞いた人たちはどう思ったでしょう? 納得したでしょうか? 受け入れられたでしょうか? 続きを読めば分かるように、人々は納得しませんでした。イエス様を「まことのパン」だと思いませんでした。食べられる、本物のパンじゃないと。
 
おそらく、教会に来て、この言葉を聞く私たちも、どこかで疑問を持つことがあるでしょう。イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言ったけど、実際、教会に来ても、イエス様を信じても、飢えるときは飢えるし、渇くときは渇く。
 
仕事が上手くいかなかったり、家庭が困窮したり、心と体を壊すこともある。本当に、イエス様が「まことのパン」であり、「命のパン」であるのなら、今の私は、どうして満たされないんだろう? どうして苦しいんだろう? 命を与えられるどころか、死にたい気持ちもチラついているのに。
 
私だけだろうか? 私がおかしいんだろうか? 他の人は、教会に来て、聖書を読んでイエス様の言葉を聞いて、満たされるんだろうか? 元気になって、前向きになって、甦ったようになるんだろうか? 日曜日の礼拝に来て、ここから送り出されるとき、まだ上を向いて歩けない自分は、命を与えられていないんだろうか……?
 
あなたに、伝えたいことがあります。かつて、イエス様から「命のパン」を渡された人は、「まことのパン」を与えられた者は、それを受け取った直後、敵に捕まったイエス様を見て、恐怖に負けて逃げ出しました。そのまま家に閉じこもりました。命の危険を感じて出てこなくなりました。
 
それが、最初の聖餐式「主の食卓」の後に起きた出来事でした。彼らは、イエス様から「これはわたしの体である」と言われたパンを食べ、「これはわたしの血潮である」と言われた葡萄酒を飲み、信仰者であり続けるよう励まされました。けれども、部屋を出て間もなく、彼らは信仰者であり続けることが困難になり、死んだように閉じこもります。
 
何に依って立てばいいか、何を糧に生きればいいか分からなくなり、祈る言葉さえ出てこなくなります。「あのとき、自分もイエス様と一緒に捕まって死ぬべきだった」「たとえ殺されても一緒に行くと言ったのに、貫けなかった」と苦しくなり、「死」という文字が、何度も頭の中をよぎります。
 
一緒だったんです。教会に来て、聖書を開いて、イエス様の話を聞いて、命を得られた気持ちになるどころか、むしろ、日常では困難に揉まれ、挫折を繰り返し、頭の中を「死」がチラついてしまうあなた自身と、弟子たちも同じだったんです。彼らも、満たされていると思えない日々を過ごしました。彼らも、命を受けたと思えない日々を過ごしました。
 
しかし、イエス様が与えた「命のパン」は、彼らを死んだままにはしておかれません。あなたを死んだままにはしておかれません。イエス様との新しい出会いを導いて、新しく生きる者に、信じる者に変えていきます。最後の晩餐で、弟子たちのためにパンを裂かれたイエス様は、復活して弟子たちに現れ、再び彼らのためにパンを裂きます。
 
あの時、逃げ出してしまったあなたのことも、今まで、閉じこもっていたあなたのことも、イエス様は決して、死んだまま、死んでいくままにしておかれません。「あなたは父なる神が、わたしにお与えになった、かけがえのない存在なんだ」と語られて、決して自分のもとから追い出さないことを告げられます。何度でも出会い続けることを約束します。
 
イエス様がもたらす「命のパン」は、あなたが倒れているときも、あなたが死にたくなるときも、あなたが閉じこもっているときも、あなたを養い、あなたを新しくする準備をしているんです。主の食卓で、イエス様から「まことのパン」を受け取った弟子たちが、やがて聖霊を受けて、新しく歩み始めたように、あなたも新しくされていきます。
 
イエス様は言いました。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」……そう、あなたのことも失わないで、終わりの日に復活させるために、神様はイエス様を遣わして、この言葉を告げたんです。
 
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」……飢えている者、渇いている者は集まりなさい。キリストは「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われました。満たされない者は、聞きなさい。
 
あなたは今日、イエス様がパンを渡した一人です。「新しい命」を与えられた一人です。死にゆく者ではなく、生かされる者の一人です。終わりの日に、復活させられる者の一人です。自分自身が死んだ者のように感じている者は、思い出してください。あなたは死んでいるのではなく、眠っている。起きなさい、キリストがあなたを呼んでいます。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。