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犠牲になった子どもたち【新年礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 マタイによる福音書2:13〜23
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
子どもの頃、旧約聖書の話で、ずっと引っかかっていたことがありました。有名な出エジプトの物語で、イスラエル人を奴隷にしていたエジプト人が、神様から十の災いを受ける話です。その最後の災いで、多くの子どもたちが犠牲になります。なんと、エジプト人の家で、最初に生まれた子どもたちが全員死んでしまったんです。
それは、イスラエル人を奴隷から解放し、この国から去らせてほしいという頼みを、エジプトの王ファラオが頑なに拒んだからでした。神様は、最後の災いを下すとき、イスラエル人が災いを受けないように、彼らの家の入り口に小羊の血を塗って、印をつけるよう命じます。入り口に血を塗ってある家は、災いを受けなくて済むと語られました。
けれども、エジプト人はそのことを知らなかったので、どの家も、入り口に小羊の血を塗ってはいませんでした。真夜中になると、王座に座しているファラオの子どもから、牢屋につながれている捕虜の子どもまで、また、家畜の子どもまで、最初に生まれたエジプトの子は、ことごとく死んでしまいました。
まさに大量虐殺(ジェノサイド)です。しかも、犠牲になったのは多くの子どもです。神様がこんな展開を望むなんて、信じられません。おそらく皆さんの中にも、ずっと引っかかっていた人がいるはずです。イスラエル人の中にも、「いくらエジプト人であっても、子どもの命が犠牲になるのは間違っている」と思う人がいなかったのか疑問です。
確かに、イスラエル人は、ファラオによって、「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じられ、先に、自分たちの子どもを殺されていました。しかし、だからと言って、敵の子どもたちが死ぬことも、当然のように、受け入れてしまったんでしょうか?
「このままじゃ、あなたの家の子は死んでしまう」と、エジプト人の親たちに、家の入り口へ血を塗って、災いを避けるよう、教えた人はいなかったんでしょうか? 神様に向かって、「いくらエジプト人でも、子どもの命に手をかけるのはやめてください」と、執り成す人はいなかったんでしょうか?
神様に選ばれ、イスラエル人を率いたモーセも、エジプト人の子どものために、何の執り成しもしなかったんでしょうか? 彼は、幼い頃、ファラオの命令で、ナイル川に捨てられますが、ファラオの王女に拾われて、王女の子として育てられました。モーセという名前は、エジプトの王女が、自らつけてくれた名前でした。
彼にとって、エジプト人は、同胞を虐げる敵でありつつ、自分を救ってくれた王女の民でもありました。また、モーセ自身も、ファラオの家臣や一部のエジプト人から、大いに尊敬を受けていました。さらに、神様は、最後の災いを下す前に、イスラエル人に、エジプト人の好意を得させ、金銀の装飾品を分けさせるほど、その仲を取り持っていました。
本当に、エジプト人の初子を滅ぼす展開を、神様は望んでいたんでしょうか? 本当は神様がイスラエル人に期待したのは、自分たちの子どもだけ、助かるようにすることではなく、エジプト人の子どもたちも、犠牲にならないよう、彼らのために執り成して、関係を回復し、和解に至ることだったんじゃないだろうか?……そんなふうに思うんです。
けれども、イスラエル人の中で、エジプト人の子どものために、神様へ執り成す者は現れません。エジプト人の中で、イスラエル人の子どものために、王へ執り成す者がいなかったように……残念ながら、新約聖書でも、このような歴史が繰り返されます。しかも、今回は、ユダヤ人の王ヘロデによって、ユダヤ人の子どもたちが殺されるんです。
先ほど読んだ、マタイによる福音書では、2章の後半に、生まれたばかりのイエス様がヘロデ王に命を狙われ、ヨセフとマリアに連れられて、エジプトへ逃げたことが書かれていました。ヘロデ王は、自らの保身のため、妻をはじめ、身内の者6人、息子3人を殺してしまったと言われるほど、王という地位にしがみついていた人間です。
一方で、信心深い面もあり、エルサレム神殿を立派に建て直したり、洗礼者ヨハネの話を熱心に聞いたりするところもありました。東方から来た博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探していると言ったときも、すぐに、「神様が約束していた救い主が生まれたのだ」と確信して、祭司長や律法学者を問いただしたほどでした。
実は、誰よりも救い主メシアの誕生を素直に信じ、神の教えを熱心に尋ね、神殿を大事にしようとした、ユダヤ人の一人でもあったんです。にもかかわらず、彼は、王位を失うことを恐れ、待ち望んでいたはずの救い主を殺そうとします。ヘロデ王は、博士たちをベツレヘムへ送り出し、見つかったら教えるようにと命じました。
ところが、星に導かれて、生まれたばかりの救い主を見つけた博士たちは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げを受けたため、別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきます。ヘロデ王は、占星術の学者たちが自分を騙し、メシアの居場所を告げずに帰ってしまったことを知って、大いに怒り、なりふりかまわない行動に出ました。
それは、メシアが生まれることになっている、ベツレヘム周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させるという暴挙でした。再び、大量虐殺です。今回も、子どもたちのために、王を止めようと執り成す者は現れません。メシアの居場所を聞かれた祭司長も、律法学者も、ヘロデ王の言いなりです。
そんなとき、救い主の命を守るため、避難場所として示されたのは、かつて、多くの子どもたちが虐殺された、エジプトという国でした。イスラエル人の子どもたちも、エジプト人の子どもたちも、執り成しを受けることができなかった、死んでいくまま見捨てられた、悲惨な土地でした。災いを受けた、神に呪われた土地と思われていたかもしれません。
しかし、その国が、救い主の家族を匿い、助ける場所として用いられます。災いを受けたエジプトの国は、災いを受けたままにはされず、神との関係を新たに結ばれ、救い主を迎える国に変えられます。神の民の執り成しを、受けられなかった子どもたちは、神の独り子の身内として、天で執り成される仲間となりました。
後に、成人したイエス様は、子どもを連れてくる人々を叱った弟子たちに言いました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」それは、執り成しを受けられずに亡くなった、エジプトの、イスラエルの、ベツレヘムの子どもたちを、意識した言葉だったかもしれません。
あの日、守ってもらえなかった、犠牲になった子どもたちを、神様は決して放置しない。天の国はこのような者たちのものである。わたしのところに来るのを妨げてはならない。弟子たちが追い払おうとした子どもたちに、手を置いて祝福したイエス様は、虐殺された子どもたちのことも、きっと忘れずにいたでしょう。
現在、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムは、パレスチナ・ガザ地区での戦争のため、クリスマスの祝祭が2年連続で中止されています。通常なら、広場の真ん中に置かれたはずのクリスマスツリーも、あちこちから聞こえてきたはずのクリスマスキャロルもありません。
代わりに、大きな岩と有刺鉄線に囲まれて、キリストが降誕する場面を表現した展示物が置かれていました。ガザ地区の子どもたちにささげるものです。しかし、パレスチナとイスラエルの戦争が止まる気配はありません。ハマスによる攻撃も、イスラエル軍による報復も、犠牲にしている市民の大半は子どもです。
本来、子どもたちが犠牲にならないよう、ヘロデ王を、ファラオを止めて、神様に執り成すことが期待されたのに、そうしなかった大人の歴史が、ここでも繰り返されています。ユダヤ人の味方をするか、アラブ人の味方をするかの話ではありません。戦争を続ければ、子どもたちが犠牲になります。虐殺を止めなければなりません。
どんなに、イスラエルの復興を信じていても、律法の話に熱心でも、神殿の奪回が大事でも、犠牲になった子どもたちを顧みないなら、ヘロデ王と同じです。救い主を殺そうとして大虐殺を引き起こした、あの暴君と同じです。自分が味方したい人たちのことしか考えないなら、ヘロデ王を止めなかった、祭司長や律法学者と同じです。
新しい年を迎えました。私たちは今、どこに立っているでしょうか? ヘロデのところへ帰ろうとする道でしょうか? それとも、「子供たちを来させなさい」と両手を広げる、イエス様が待つ道でしょうか? 神様の「立ち帰れ」という声が聞こえてくるなら、今こそ、新しく出発するときです。
何度も立ち止まり、同じことを繰り返してしまう私たちに、語りかけ続ける神様の声に耳を澄ましていきましょう。荒れ野に水を溢れさせ、砂漠に川を置く方が、既に、私たちの前に、道を作っていることを思い出しましょう。イエス様の執り成しは、あなたを、私を変えていきます。新しいことは今も起こっています。ここに、今ここに……。
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