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もどかしい思い【クリスマス礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 イザヤ書7:10〜14、マタイによる福音書1:18〜23

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 クリスマスの訪れを告げる、アドヴェント・クランツの蝋燭に4本の火が灯りました。明後日の夕方には、キリストの誕生を記念するクリスマスを迎えますが、本日は、一足先の日曜日に、その喜びを分かち合おうとしています。実は、昨日の午前中も、芽含幼稚園のクリスマス会で、救い主の訪れを祝い、子どもたちが歌やダンスをささげていました。

 私たちも今日、祈りを合わせ、賛美を歌い、神様の与えてくださった、恵みと希望を、互いに告げ知らせる礼拝をしています。一方で、「2千年前のベツレヘムに、救い主の赤ちゃんが生まれてきた」という知らせが、自分にとって意味があるのか、疑問に思う気持ちも出て来るかもしれません。

 実際、「クリスマスがやってきた」という知らせを聞いても、多くの人は、それによって自分たちの抱える問題が直ちに解決するとは思えないでしょう。自分や家族の病気、学校や仕事のトラブル、災害や戦争による被害など、救いを求める私たちの困難は、クリスマスが来た途端、綺麗に解消されるわけではありません。

 事実、日曜日の朝、クリスマスの礼拝に出席することが叶わず、自身や家族の問題が、解決されないまま、この日を迎えた人たちがいます。お見舞いの来ない病室、復興が進まない被災地、停戦に至らない戦場……そういった場所で、「救い主の誕生をお祝いしよう」と言われても、喜ぶ気分になれない人もいるでしょう。

 何なら今日、ここに来ている人の中にも、本当はお祝いする気になれないけれど、無理して賛美を歌い、祈りを合わせ、何とか取り繕っている方が、いるかもしれません。みんなで喜びを表す日に、「とてもじゃないけど喜べない」という人が、いるかもしれません。2千年前、婚約者のマリアが、妊娠していることを知った、夫ヨセフもそうでした。

 普通なら、愛するパートナーとの間に、子どもができたと分かったら、新しい命の誕生を喜ぶものかもしれません。しかし、ヨセフはマリアと婚約していたものの、まだマリアと関係を持ったことはなく、彼女の妊娠にも心当たりがありませんでした。真っ先に思い浮かぶのは、「マリアが浮気をしたのではないか」という疑惑です。

 かつてのイスラエル社会では、現代の日本と違って、婚約中のパートナーも、結婚した夫婦と同様の扱いでした。そのため、まだ結婚していなくても、婚約中に別の相手と関係を持ったら、律法によって裁かれることになっていました。この場合、浮気をした人物は最も重い刑罰である「石打ちの刑」にかけられます。その名のとおり、死ぬまで石を投げられるという残酷な処刑方法です。

 そのため、ヨセフはマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。そうすれば、自分が黙ってさえいれば、彼女は関係を持った相手と結婚し、殺されずに済むと思ったのかもしれません。しかし、本来、別れるためには、婚約を破棄する正当的な理由があることを、2人の証人を立てて証明しなければなりませんでした。

 もし、正当的な理由を述べず、一方的に別れようとしたら、反対に、ヨセフが罪を問われることになるでしょう。かといって、マリアが浮気をしたという疑惑について説明すれば、彼女が処刑されてしまいます。疑惑に目をつぶって、マリアを妻として迎え入れた場合も、「結婚前に関係を持って妊娠させた」という汚名を着ることになってしまいます。

 ヨセフの心中は穏やかじゃありません。マリアは、自分が聖霊によって身籠ったことを天使から聞いていましたが、ヨセフにどこまで伝わっていたかは曖昧です。もしかしたらマリアも上手く話せずにいたか、言っても信じてもらえないと思って、ろくに会話もできないまま、親戚の家にこもっていたのかもしれません。

 2人の間には、気まずい空気が流れていました。もし、マリアが天使に聞いたことを、ヨセフにそのまま話していたなら、彼は、それを聞いても信じられなかったことになります。当然と言えば、当然です。苦し紛れの嘘をついたか、パニックになって、わけのわからないことを言い出した……と考える方が普通でしょう。

 心のどこかで、「聖霊によって身籠ったことが事実ならいいのに……」と思っていても、それを神様に尋ねることはできませんでした。自分もマリアも、ただの人間に過ぎないのに、「神の子を授かった」なんて考えるのは、おこがましいし、恐れ多いし、怒られかねない話です。

 お腹にいる子が、浮気によって妊娠したのか、聖霊によって妊娠したのか、神様に聞くなんてとてもできない……よく考えたら、そんな心境だったのかもしれません。そもそも「浮気をしたのではないか」という疑惑について、パートナー本人に面と向かって尋ねることさえ、私たちはなかなかできません。

 自分の抱えている悩みを、牧師や司祭に相談するときも、この辺りは最後まで、なかなか言い出せませんよね。こんなこと、神様に頼っていいんだろうか? 自分さえ我慢すれば、綺麗に収まるんじゃないか? そんなふうに、恐れていること、恥ずかしいことを心の内に仕舞い込み、一人で苦しんでいる人がたくさんいます。

 救い主が生まれてきた家、マリアの家、ヨセフの家もそうだったんです。赤ちゃんを身籠って、喜びたいのに、とても喜べる状況ではなかった家だったんです。「お腹にいる子は聖霊によって身籠ったんだ」と言われても、「そんなはずはない」「そんなことを思っちゃいけない」「良い知らせを期待しちゃいけない」と打ち消していた家だったんです。

 だからこそ、今日、喜ぶ気持ちになれない人は知ってください。救い主が訪れたのは、救い主を受け入れる用意のなかったところでした。すぐには喜べない、色んなことを恐れている人たちのもとに、イエス様は生まれてきました。「良い知らせ」を受け取るのが最も困難な人たちに、最も信じがたい人たちに、生まれたばかりのイエス様は抱かれたんです。

 最初に読んだ、イザヤ書7:10〜14は、神様に救いを求めることができない、ユダの王アハズに向かって言われた言葉でした。アハズ王は、同盟を組んだアラムとエフライムの王によって、自国が侵略されるという脅威を前に、「ただ、神様に信頼して祈る」ということができなかった人物でした。

 預言者イザヤは、「アラムとエフライムの王の同盟に恐れることはない」「ただ神である主を信頼しなさい」と促し、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と言いますが、アハズはそれを拒否します。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」……それは一見、神様を都合よく頼らない、自制心のように見えますが、実際は違います。

 神様の方から、「わたしを頼りなさい」「わたしに助けを求めなさい」と預言者を通して語っているのに、アハズは「本当に神様が助けてくれる」「この脅威から救ってくれる」と信じられずに、偶像の神を頼っているアッシリアの援助を求めてしまうんです。これって神様からしたら、とんだ裏切りです。

 けれども、自分に助けを求めない、異教の国に頼ろうとするアハズに対し、神様は「もう知らない」「わたしはお前を救わない」と言うのではなく、「インマヌエル」という名の男の子が生まれることを告げられます。救いのしるしを「求めない」と言うアハズに、神様の方から救いのしるしを与えるんです。

 インマヌエルというのは、「神われらと共にいます」という意味で、自分の助けを求めない、期待できない人々のことも、神様は見捨てず、一緒に居てくださるというメッセージが込められています。あなたが、神様の救いを信じられず、もどかしい思いをしているとき、神様も、あなたともどかしい思いを共有し、「自分はここにいる」「一緒にいる」と訴えるんです。

 今日はこの後、キリスト教の入信式である「バプテスマ」(洗礼式)が行われます。おそらく、洗礼を受けたとき、多くの人が、喜びだけでなく、不安も感じたと思います。本当に今、洗礼を受けて良かったんだろうか? もし、私が洗礼を受けることを神様がゆるしていなかったらどうしよう?……と。

 けれども、思い出してほしいのは、「洗礼を受けたい」という思いもまた、神様があなたと一緒に居て、芽生えさせてくださったということです。本来、不安だらけで、自信もなくて、揺れ動いてばかりの自分が、求めることさえできない思いを、あなたに抱かせてくださったのが、神様なんです。

 だから、これから洗礼を受ける人、洗礼を受けてなお、不安を抱いている人も、どうぞ安心してください。神は、あなたと共におられます。もし、洗礼を受けたいのに、それを妨げる何かに悩まされている人たちも、安心してください。すぐには受け入れられない、すぐには喜べない、すぐには信じられない人たちが、受け入れ、喜び、信じるようになるまで、神様は導いてくださいました。

 クリスマスは、その最初の出来事を記念するものです。赤ちゃんが生まれる知らせを聞いて、恐れを抱いた人たちが、恐れから解放されて、喜びを分かち合う者に変えられていく……その一人に、あなたもこれから加えられます。あなたも共に祝福を受けます。だから、天使の告げたこの言葉を、改めて思い出しましょう。

 「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。