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苦しまなきゃいけない?【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録14:21〜28
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」……まるで、苦行を勧められているような気分になる言葉が、パウロとバルナバから残されています。神の国に入って救われるには、それだけ苦労しなければならない……多くの苦しみを経なければ、神の国には入れない……そんな厳しい言葉に聞こえてきます。
何だかカルトっぽくて、警戒心も湧いてきます。神の国に入りたいなら、生活が苦しくなるほど献金したり、一日の大半を奉仕の時間に費やしたり、周りに嫌われてでも新しい人を教会へ連れて来たり、苦しいことを自ら進んでしなければならない……こういうふうに言われていると、頭の中で変換してしまう人もいるかもしれません。
最初に言っておきますが、もちろんこの言葉は、苦行を勧めたり、理不尽な指示に従わせたり、信者を奴隷にするために語られたものではありません。各地で迫害に遭っている仲間や、伝道がうまくいかない人たちへ「信仰に踏みとどまるよう」励ますために語られた言葉です。
とはいえ、イエス様を信じるようになったばかりの人たちが、この言葉で、信仰に踏みとどまることができたのか、ちょっと疑問が湧いてきます。だって、イエス様を信じるようになったのに、今ある苦しみから、即解放されるわけじゃなく、むしろ、多くの苦しみを経なくてはならないって言われるんです。
嫌ですよね? 現代でも、キリスト教を信じる多くの人が、色んな悩みや困難を抱えながら教会へやって来て、苦しみから解放されるために、洗礼を受けていきます。クリスチャンになったら、信仰者になったら、今まで煩わされていた悩みや葛藤から解放されて、平安に生きていくことができる……そう期待している人も多いと思います。
実際、神様を信じれば、何でも解決すると言って、伝道している人もいます。信仰を持てば、立派な人間になって、周りとの関係も良くなって、成功を収められるようになる……とアピールする人もいます。そこにいる人たちは皆、生き生きとして、輝いていて、どんな困難にも負けないような、明るい人生を送っているように見えるかもしれません。
自分も信仰を持てば、洗礼を受ければ、この人たちみたいに充実した、成功した人生を送れるかもしれない。病気が良くなって、家族や職場の関係も良くなって、生活苦からも解放されるかもしれない。ところが、いざ信仰生活を始めてみると、新たな病気が見つかったり、相変わらず関係性で悩んだり、失敗を繰り返すこともあります。
信仰を持ったはずなのに、信じて祈り続けているのに、苦しさから解放されず、生き生きとした人生を送れず、立派な人にもなれてない……これは自分がおかしいのか? 十分な信仰を持ててないのか? 私は本当の信仰者でも、キリストの弟子でもないんだろうか? このまま教会に通っていても、信徒で居続けても、意味はないんだろうか?
おそらく、デルベからリストラ、イコニオン、アンティオキアへ引き返しながら、パウロとバルナバと一緒に伝道していた弟子たちも、多くの苦しみを抱えていました。家族と上手くいかない、伝道しても上手くいかない、かえって敵を作ってしまった、かえって仲間を減らしてしまった、自分がここにいてもみんなの苦しみを増やすだけだ……。
そんな中、パウロとバルナバは、はっきり告げます。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」……信仰者になったから、キリストの弟子になったから、苦しみがなくなるわけじゃない、上手くいくようになるわけじゃない。むしろ、多くの苦しみを経ることになる。困難や問題とぶつかっていく。
私たち、パウロとバルナバの2人だって、仲間だったヨハネと一緒にいることができなくなり、別れてしまった。たくさんの人が話を聞いてくれた翌週に、その町から追い出されてしまった。仲良くなった異邦人たちも、対立しているユダヤ人たちに扇動されて、悪意を抱かれるようになってしまった。石で打ち殺そうとされるほど、憎まれてしまった。
何なら今だって、イエス様の教えと業を、御言葉を語っているけれど、教会を建てられない地域がたくさんある。上手くいっていないから、引き返して、もう一度御言葉を語っている。一緒に伝道してきた弟子たちと仲違いになって、別々になることもある。それでも、神様は、私に、あなたに、ゆだねて送り出している。神の国に向かって歩ませている。
あなたが多くの苦しみに遭っているのは、不信仰で、神の国に入れないからではありません。あなたが多くの苦しみに遭っているとき、あなたはイエス様と一緒に、神の国へ続く道を歩んでいます。信じても上手くいかない、祈っても願いどおりにならないとき、あなたが信仰者でいることは、キリストの弟子を名乗ることは、意味のないことではありません。あなたから信仰の門が開かれていく、大きな出来事の中にいます。
今まさに、苦しくて、しんどくて、そんな状況から解放されず、平安な気持ちになることができず、「私は神様を信頼しきれていないんだろうか?」「こんな気持ちから解放されないのは、不信仰なんだろうか?」と苦しんでいるあなたに言います。その苦しみを経てあなたは神の国へ至る道を歩んでいます。神様はあなたと共にいて、あなたを自分の子、自分の弟子、自分の兄弟と呼んでいます。
どうか、一人一人が信仰に踏みとどまることができますように。痛みから、苦しみから解放される道を、キリストと共に歩んでいくことができますように。確かに今、その途上にいることを、神様と共にいることを、知ることができますように。あなたと共におられる主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。