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因果応報?【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録18:1〜8
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
コリントの町と言えば、コリントの信徒への手紙からも分かるように、パウロがしばらくの間滞在し、教会を建て、教師として一年半教えていた町です。これまでパウロが訪れたヨーロッパの町では、たいていユダヤ人から反感を買い、攻撃を受け、追っ手を逃れては次の町へ移っていく……ということを繰り返していました。
コリントの町でも、パウロがユダヤ人に対し、「救い主メシアはイエスである」と力強く証をすると、やはり「そんなわけあるか」と反抗され、口汚くののしられます。けれども他の町と違って、すぐに追い出されたり、襲われたりしたわけではなかったようです。パウロは町の中で、拠点を異邦人の家に移しただけで、まだ次の町へは行きません。
もしかすると、パウロ自身は、さっさと次の町に行きたかったのかもしれません。神様が夜中に幻を通して語りかけた言葉は、彼をこの町に引き止めているように聞こえます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
神様にこう言われなければ、パウロが一年半もコリントに留まることはなかったかもしれません。しかし、一年半後、ついに、ユダヤ人たちは一団となってパウロを襲い、法廷に引き立ててしまいます。神様、話が違うじゃありませんか……と思いつつ、パウロが弁明のため、口を開こうとすると、地方総督のガリオンが先にユダヤ人たちへ語ります。
「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」……宗教内の争いは、宗教内で解決してくれ。法律違反ならともかく、神学論争に付き合う気はない。
一見、ドライな反応ですが、為政者としては公正な態度に思えます。神様が、パウロに「危害を加える者はない」と言ったとおり、パウロを法廷に連れて行ったユダヤ人たちは彼に危害を加えることはできませんでした。ところが、ユダヤ人たちが法廷から追い出されると、今度は群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴り始めます。
これは、宗教内の争い云々ではなく、明らかに不法行為、暴力行為です。治安を維持する当局者は、当然止めなければなりません。ところが、ガリオンはそれに全く心を留めずソステネが殴られるままにしていました。法廷からユダヤ人が追い出された時点で、解放されたはずのパウロも、この件に関しては無視しています。
突然出てきた会堂長ソステネですが、彼は何者だったんでしょう? パウロに敵対し、彼を訴えて法廷まで連れてきた代表者だったんでしょうか? 実際、いくつかの注解書はソステネがパウロを告訴した会堂長だったと記しています。もしそうなら、無実の罪で訴えた者が、逆に危害を加えられる、という因果応報を迎えたことになります。
彼は自分の行為の報いを受けたのだ……と考えれば、ガリオンが群衆の暴力を止めなくても、パウロが仲裁に入らなくても、仕方ないと片付けることもできるでしょう。ソステネを殴った群衆は、パウロの味方だったのかもしれません。パウロが連れて行かれたのを心配して、かけつけた人たちだったのかもしれません。
でも、パウロの話を聞いて、イエス・キリストを救い主だと信じた者たちが、人に暴力を振るうってどうなんでしょう? それを止めないってどうなんでしょう? さらに、ソステネという名前は、コリントの信徒への手紙一1:1にも、パウロの仲間として出てきます。同一人物であるなら、ソステネは後の仲間です。
もし、このあとソステネが回心し、信者となっていったなら、彼は、自分を殴りつけたキリスト者たちの仲間になった……ということになります。彼をボコボコにした群衆よりも、ボコボコにされてなお、回心して仲間になったソステネの方が、よっぽど大人に見えるかもしれません。どうも、単純な因果応報が描かれているわけではなさそうです。
また、実を言うと、ソステネがパウロを告訴した会堂長だと、明確に記している箇所は聖書のどこにも出てきません。注解書によっては反対に、ソステネもクリスポと同じく、パウロの話を聞いて仲間になった会堂長の一人だったと記しています。確かに、その方がコリントの信徒への手紙で、パウロの仲間として挙げられるのも自然に感じます。
この場合、群衆はパウロを訴えても処刑してもらえなかったため、パウロの仲間であったソステネに八つ当たりをして、法廷の前で殴りつけたと考えられます。そうなると、ガリオンは、パウロに危害を加えようとした群衆の八つ当たりを、見て見ぬ振りしたことになります。
パウロは無事だったものの、代わりに彼の仲間が襲われた……という構図は、少し前の17章にも出てきました。パウロがテサロニケでユダヤ人たちに襲われそうになったとき彼は逃がしてもらえましたが、彼を匿ったヤソンと数人の兄弟が捕らえられ、投獄され、保証金を取られて釈放される、というエピソードです。
ある信仰者が、敵の手から逃れて助けられる一方、ある信仰者は、敵の手に捕まって危害を加えられる……信仰がある人は、みんな神様に守られて平気……という話ではありません。ある人は助かりますが、ある人は傷つきます。傷ついた人の信仰が欠けていたわけでも、未熟だったわけでもありません。聖書には、あらゆる信仰者の歩みが描かれます。
この話を、パウロが守られてよかったね……で終わらせることは簡単ですが、もう少し深い意味が込められているように思います。通常、法廷はイエス様の教えと業を証しする絶好の機会として用いられてきましたが、この日、パウロは話を遮られ、メッセージを語ることができません。
パウロは守られますが、代わりにソステネが襲われます。ソステネがこの時点でパウロの仲間だったなら、同じ信仰者が傷つくままにされています。ソステネがパウロを告訴した会堂長であったなら、パウロの仲間たちが彼に暴力を振るっています。パウロはしばらくの間滞在してコリントを去りますが、手紙を見れば、たくさんの課題が残っています。
聖書に出てくる教会の姿は、信仰者の姿は、決して、理想的で模範的なものばかりではありません。むしろ、教会の中にあった黒歴史や、うまくいかない現実が赤裸々に記され、今の私たちと重なる問題が、聖霊を受けた弟子たちの間でも、次々と起こっていたことを語ります。
逆に言えば、清く、正しく居られない私たちの間に、聖霊は注がれ続けているんです。間違えたり、失敗したり、過ちを犯す私たちから、神様は離れないで留まって、語り続けているんです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」……気まずいときにも、恥ずかしいときにも、神様はそばで導き続けます。
正直に、赤裸々に、自分たちの姿を告白してきた初代教会を見つめながら、私たちも、正直に、誠実に、自分たちの姿を見つめ直し、これからの教会を築いていきましょう。道を逸れたとき、立ち止まったとき、後ろに下がろうとするとき、繰り返し、思い出しましょう……恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。アーメン。
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