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捜しても見つからない【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書7:32〜39

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 神の子イエス・キリストを捜したことはあるでしょうか? この世で救い主を見つけたことはあるでしょうか? たいていの人は首を横に振るでしょう。聖書に書いてある救い主は、十字架にかかって死んだあと、3日目に甦り、その40日後に天へ昇っていかれたから、もう地上にはおられない、捜しても見つからない……そう思うかもしれません。

 実際、ヨハネによる福音書には、イエス様ご自身が、人々に向かってこう言ったことが書かれています。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

 この言葉には、二つの意味がありました。一つ目の意味は、まもなく、自分は十字架にかかって殺されるが、遺体を葬った後、墓を捜しても見つけることはできない……死んだまま、動かないままの自分は見つからない……復活した自分が会いに来るまで、誰も、私がどこにいるのか、知ることはできない、という意味です。

 実際、イエス様が十字架にかかって死んだ後、墓を見に行ったマグダラのマリアや弟子たちは、誰一人、墓の中にイエス様を見つけることはできませんでした。墓の外に立っているイエス様に出会っても、最初はそこにいるのが誰なのか気づきませんでした。イエス様から近づかれ、イエス様から呼びかけられて、初めて、この方がどこにいるのか気がつきます。

 もう一つの意味は、自分が帰るのは、この世の国や土地ではなく、自分を遣わした神の国、天の国だから、地上を捜すあなたたちは、見つけることができない……自分がこの世で生まれた場所や、訪れそうな場所を捜しても、見つけることはできない……誰も、私が行く場所を、目で見ることはできない、という意味です。

 実際、復活したイエス様が、40日後に天へ昇っていったとき、山の上まで来た弟子たちは、誰も、その後をついていくことができませんでした。ただ、天を見上げることしかできませんでした。来たる日に、イエス様から迎えられ、イエス様から招かれて、初めて、この方がいる場所へ帰ることができます。

 もちろん、まだイエス様が十字架にかかって死ぬことや、3日目に復活して、天に昇ることを知らない人たちは、何を言っているのか分からなくて、思わず疑問が漏れてきます。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」

 確かに、イエス様は地上にいるとき、色んなところへ行っていました。関わりを持てば汚れてしまうと思われていた異邦人のところにも、神から罰を受けていると思われた病人のところにも、律法を守れなかった罪人のところにも行っていました。異教の民との混血が進んだ地域にも、地元を支配する役人にも会いに行きました。

 きっと救われるはずがない、罪が重すぎて滅ぼされる……そう思われていた人たちに、救いを語りに行く様子は、イエス様ならあり得そうに感じます。ところが、人々の予想に反して、イエス様が教えに行こうとしたのは、離散しているユダヤ人やギリシア人といった範囲に収まりませんでした。

 パルティア、メディア、エラムにいる者、メソポタミア、ユダヤ、カパドキアにいる者、ポントス、アジア、フリギアにいる者、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方、そして、ローマから来た者や、クレタ、アラビアから来た者に至るまで、あらゆる者のところへ、救いを語りに行こうとします。

 それが、イエス様が聖霊を送って、弟子たちがあらゆる国の言葉で話し始めたペンテコステの出来事です。来週、5月19日に、ちょうどその日を記念する日曜日を迎えますが、イエス様が行こうとする場所、救いをもたらそうとする場所は、いつだって、人々の予想のつかないところでした。

 なにせ、聖書に記されるこれらの場所は、既にその時代、滅んでいたり、明らかに無茶な距離だったり、教えに行けるわけがなかった場所でもありました。しかし、時を越え、場所を越え、あらゆる隔たりを越えて、イエス様は聖霊を送り、救いを受け取るよう教えに行くんです。

 確かに、イエス様が「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言った言葉は本当です。同時に、イエス様の方から、わたしたちのいる所へ来てくれること、聖霊を送ってくださることが、改めて告知されていました。イエス様は、自分の命が狙われていることを知りながら、祭りの最後の日に叫びます。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」……この言葉は、イエス様が自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について語ったものであると書かれています。

 信じた人が受ける“霊”と言えば、聖霊を指していると、教会に通ってしばらく経つ人は思うでしょう。でも、自分の中に、生きた水が流れ出ていると感じる人は、少ないかもしれません。聖餐式で杯を受け取っても、愛餐式で水を受け取っても、相変わらず、弱ったままの自分がいる。力が溢れ出てくれない。そういう人もいるかもしれません。

 自分の中に、イエス様が送ってくださる聖霊を捜しても、見つからない。感じることができない。ペンテコステが近づいてくると、こういう感覚にしばしば苦しめられる信徒もいると思います。しかし、生きた水の流れは、キリストの送ってくださる“霊”は、確かに、あなたの中にも流れているんです。

 思い出してください。イエス様が“霊”を受けたときは、どんなときだったか……ヨハネによる福音書19章34節には、息を引き取ったイエス様が、兵士の一人に、槍で突かれた場面が出てきます。そのとき、槍で刺されたイエス様のわき腹から、すぐ血と水とが流れ出てきました。

 十字架にかかって亡くなったイエス様の体から、水が流れ出てきます。「その人の内から」水が流れ出てきます。頭を垂れて、息を引き取って、力を失ったように見える、イエス様の内側から、生きた水が流れ出ます。このときこそ、イエス様が神様の栄光を受け、“霊”が降った瞬間でした。

 おそらく、その場に居た人たちは、誰も、イエス様の遺体から出てきた水を「生きた水」とは思わなかったでしょう。死んだ人から出てきた水です。血と一緒に出てきた水です。刺された場所から、水が流れてきたイエス様に、力強さや生命力を感じた人は、いなかったと思います。

 しかしそのとき、イエス様は神様から“霊”を受けていました。3日目に復活し、再び弟子たちへ会いに行く力をもらっていました。そして、あなたの中にもやって来ます。あの日、“霊”を受けたイエス様が、力を失い、死んでいるようにしか見えなかったように、今日、“霊”を受けているあなたも、自分から流れ出ているものが、「生きた水」には見えていないかもしれません。

 しかし、紛れもなくあなたには、その血と一緒に、生きた水が流れています。イエス様が時を越え、場所を越え、あらゆる隔たりを越えて、あなたの中に入ってきます。自分の中に捜しても、イエス様が、聖霊が、見つからないとき……弟子たちも、自分からは、捜しても見つけられなかったことを思い出してください。

 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」……それは決して、あなたのそばにイエス様がいないからではありません。あなたが聖霊を受けていないからではありません。むしろ、見つけることができないとき、既に、イエス様はあなたのもとに来ているんです。あなたを救いに来ているんです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」……さあ、あなたも受け取りなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。