私の所へ来てください【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙二4:9〜22
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
テモテへの手紙二の最後には、たくさんの名前が出てきます。デマス、クレスケンス、テトス、ルカ、マルコ、ティキコ、カルポ、アレクサンドロに続き、プリスカ、アキラ、オネシフォロ、エラスト、トロフィモ、エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア……というふうに、並べると舌を噛みそうです。
たった13節の間に17名……しかも、やたらと個人的な話が続きます。メッセージのタイトルにもなっているように、これらの名前が出てくる文章は「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください」という書き手のお願いから始まっています。名前を挙げられる人々は、必ずしも良い評価ばかりではありません。
「この人は私に良くしてくれた」という感謝の言葉があるかと思えば、「この人は私を見捨てていった」という恨み言も出てきます。名指しで誰かが批判されているのを見せられると、自分もこの人に良くしなければ、こんなふうに、名指しでさらされてしまうのか……と恐ろしくなってしまいます。
ただし、この手紙は、宣教者パウロの名前で書かれているものの、実際には、パウロの教えを受け継いだ2〜3世代あとの弟子たちが、彼の名前で書き残した手紙と言われています。名前の出てくる人たちは、既に亡くなっていたでしょう。よく知れ渡っている名前もあれば、もう忘れられている名前も含まれていたと思います。
たとえば、「デマス」という名前は「デメトリオ」の短縮系とも考えられ、新約聖書の他の箇所にも、同時代か、少し後に書かれた外典の文書にも出てきます。しかし、デマスやデメトリオは、かなりありふれた名前でもあったので、全員が同一人物とは限らず、良い評価もあれば、悪い評価も出てきました。
一方、「クレスケンス」という名前は、新約聖書中、ここにしか書かれていないため、どんな人物であったかは、ほとんど知ることができません。しかし、一緒に挙げられたテトスの名前は、この後の「テトスへの手紙」にも出てくるように、パウロの忠実な同労者として知られていました。
けれども、この世を愛し、パウロを見捨て、テサロニケに行ってしまったデマスに続き「クレスケンスがガラテヤに、テトスはダルマティアに行っている……」と出てくるためこの2人も、パウロを見捨ててしまったのか、パウロの指示に従って出かけたのか、よく分からなくなっています。
続く11節で、「ルカだけがわたしのところにいます」と語られるため、パウロを置いて行ったクレスケンスとテトスについても、あまり良く思っていない印象を与えられます。しかし、後にテトスを忠実な仲間として評価している文書を見ると、教会は、名指しで批判されるような人々も、再び仲間として受け入れられる共同体だったのかもしれません。
パウロと一緒に居たルカに関しては、使徒言行録にも出てくる、パウロの愛する医者であり、同労者の一人であったこと以外に、聖書から知ることはできません。伝統的な解釈では、このルカをルカによる福音書と、使徒言行録の著者というふうに考えますが、確証があるわけではなく、聖書学においては、おそらく違う人だろうと言われています。
また、「ここへ連れてくるように」と頼まれている「マルコ」の名前は、使徒言行録でしばしば言及されているヨハネ・マルコと同一人物だろうと言われています。これはなかなか衝撃です。実は、使徒言行録において、マルコは一時パウロから離れ、彼を再び仲間として迎えることに、パウロが激しく反対した出来事が残されているからです。
それは、パウロとバルナバが、意見を激しく衝突させ、ついには別行動を取るようになった原因でもありました。ところが、テモテへの手紙では、「彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」とパウロの名前で評価され、マルコとの間に、信頼の回復と、和解がもたらされたことを想像させます。
実は、名指しで批判されている人たちも、このように関係が回復し、和解に至り、名指しで感謝される道が備えられていることを、聖書は証ししています。一部の聖書箇所だけを切り取って、糾弾の言葉だけに目を止めて、「この人のようになってはいけません」と、単純な脅しのように捉えることは、もったいない読み方です。
実際、16節には「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように」というとりなしの言葉が語られています。それは十字架につけられたイエス様が自分を磔にした人々のため「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と語った言葉と重なります。
また、パウロが処刑に賛成していた殉教者ステファノの最後の言葉「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」という叫びとも、そっくりそのまま重なります。この2人はもともとパウロが敵対していた、激しく非難していた存在でしたが、そのパウロが間違っていたことを認め、逆に、仲間として受け入れられる、迎えてもらう出来事がありました。
パウロの身に起こったことが、彼の名前で批判されている人々の身にも起こることを、聖書は否定しないんです。だからこそ、手紙の著者はパウロの名前でこう言います。「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます」それは、パウロをはじめとする、宣教者の仲間を助けなかった、見捨ててしまった、と名指しで批判される者にも、向けられていく言葉です。
パウロを置いて行ったテトスが、忠実な同労者となったように……パウロから離れていったマルコが、彼の務めをよく助ける者となったように……パウロの弁明のとき、助けないで見捨てた者たちが、その責めを負わされない者となったように……今、教会から離れている者、信仰から離れてさまよっている人たちにも、救いは必ず訪れます。
だから、聖書の言葉を単なる脅しとして受け取らず、関係の回復を、和解に至る道を、指し示したものとして、私たちに絶望ではなく、希望をもたらす言葉として、豊かなメッセージを、受け取っていきたいと思います。主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。アーメン。
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