確信があるのに裁かない?【日曜礼拝】
《はじめに》
岐阜地区の交換講壇の礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ローマの信徒への手紙14:10〜23
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇がやって来ました。私が岐阜地区に来てから、もう7年目に入りますが、各務原教会でメッセージをするのは、これが初めてだということに、今更ながら驚いています。岐阜地区で一番近い教会同士、もっと色々交流すれば良かったな……と思いながら、なかなか一歩を踏み出せなかった自分がいます。
なぜなら、教会によっては、他の教会から人が来ること、他の教会へ牧師が行くことを信徒が嫌がることもあるからです。各務原教会はどっちだろう?……会衆の方々は、内心どう思っているだろう?……このことが、ずっと正面から聞けず、交換講壇の提案や交流集会のリクエストなど、二の足を踏んでしまうことが続いていました。
なにせ、ちょっとした考え方の違いから、教会同士がぶつかって、険悪なムードになってしまったら、後悔せずにいられません。華陽教会で当たり前に受け入れられていることが、各務原教会ではそうでなかったり、各務原教会で当たり前のことが、華陽教会ではそうでなかったり、交流が盛んになれば何かしら、気になるポイントが出てくるでしょう。
自分の教会の中でだって、同じ会衆でも、互いに受け入れられることと、受け入れられないことがありますよね? あまりに意見が合わなくて、冷戦状態になっていたり、とある話題になった途端、議論の応酬が始まったり……職場や、学校や、家庭と同じで、互いに裁き合うシーンが出てきます。
そんな中、気になる言葉が聞こえてきました。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」……もしもこれを、互いに裁き合っている2人の前で、衝突している集団の前で聞かせたら、「私たちを黙らせるな」と怒られるかもしれません。
ローマの信徒への手紙14章10節から23節は、4年前の平和聖日に教団の聖書日課で選ばれている箇所でした。平和聖日は名前のとおり、「平和について考える日」「平和のために行動する日」「平和のために祈り合う日」です。しかし、毎年、その日のメッセージには困っています。果たして自分に何が言えるか、分からなくなります。
なぜか? それは、どれだけ綺麗に平和を語り、どれだけみんなで平和を祈り、どれだけ対立をなくそうと訴えても、自分自身に、対立をやめようという気がないからです。「もう互いに裁き合わないようにしよう」……聖書に出てきたパウロの呼びかけは、私たちにプレッシャーを与えます。
戦争をとめる、争いをやめる、対立をなくす第一歩として、誰もが思いつく言葉。「互いに裁き合わない」……お前は間違っている! あなたは正しくない! と言うのを止めにして、相互に理解し、立場を認め、配慮しながら生きていく……ぶっちゃけ、できませんよね? それも、自分が正しいという確信があるのに、間違った相手を裁かないなんて。
私にはできません。「正しくない」と思っている相手に「裁かない」態度をとるなんて。自分の信念に反する相手、正しさを拒絶する相手に対し、「本当はこうすべきじゃないですか?」「あなたのやっていることは間違っていませんか?」という態度になるのは、自然なことだと思います。
ローマの信徒への手紙が書かれたとき、教会には、これまでの食物規定や特定の日を重んじる人と、それらの社会通念にこだわらず、新しい生き方をする人に分かれていました。現代的に分かりやすいたとえをするなら、酒やタバコに手を出さず、友引には葬儀を避ける人たちと、そういったことに、縛られない人たちとで、分かれていたわけです。
この手紙を書いたパウロなどは、どちらかと言うと後者でした。自分がこれまで持っていた、古い生活信条から自由になって、生活スタイルの違う異邦人や外国人と一緒に神様を礼拝する。かつての掟に縛られず、様々な立場の人を思いやる。そんな生き方を選んでいました。
一方、これまで大事にしてきた生活スタイルを変えたくない人もたくさんいました。そもそも、偶像に供えられた肉を口にしないよう気をつけたり、酒を飲まないようにしたりするのは、神様への信仰と礼拝における姿勢を大事にするためでした。日曜日、神様を礼拝する日に、自分がどのような態度で臨むか、いつも注意し、考えている人たちでした。
両者は度々ぶつかります。互いに譲りたくない信念があります。「異なる生活スタイルの人を排除するなんて愛がない!」と言う人もいれば、「神様を礼拝するのに、姿勢や態度にこだわらないのか!」と言う人もいます。それぞれ、大事にしようとしていることは間違っていないのに、裁かずにはいられません。信念が否定されるからです。
奇しくも、現在のキリスト教会では、この箇所のように食べ物のことで、聖餐のことで争いが続いています。教会に初めてきた人、信仰を告白していない人も、キリストの十字架と復活を記念するパンとぶどう酒にあずかれる「フリー聖餐」……信仰を告白した人のみ、あずかることを認めた「クローズドの聖餐」……。
話題にするだけで緊張します。なにせ、牧師の場合は免職が、信徒の場合は互助の停止が関わってくるからです。正しさが衝突し、信念がぶつかって、各々、自らの確信に基づいて裁き合います。だって、正しいことを曲げるわけにはいかないから……正しさって、何なんでしょう?
あらゆる人を排除せず、全ての人が神の恵みを受けられるようにと訴える人……聖餐は信仰者が信仰者であり続けるために制定されたから、信仰告白の意志確認を大事にしようと訴える人……どちらも目指していること、大事にしていることは、そんなに間違ってないと思います。けれども、現実には互いに裁き合い、政治的な争いに発展している。
私自身は、聖餐を受けることが信仰者であることを表す以上、受ける人の自己決定権を尊重するために、もっと議論が必要だと思いますが、これからの聖餐をどうしていくかより、どの聖餐が正しいかに終始している現実があります。かつてのローマ教会で、これからどう生きていくかより、どの生活信条が正しいかで、裁き合ってしまったように。
そんな中、これまでの社会通念や掟に縛られることを痛烈に批判してきたあのパウロが、意外なことを口にします。「すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」……だいぶ、掟にこだわる人たちに寄り添った態度です。
パウロは自分の信念と同様に、相手の確信も尊重します。「間違っているんじゃないか」と疑わせながら食べさせることは、結局罪に定められる。確信に基づかない行動をさせるなら、それらはすべて罪になる。だいぶ、ずっしりとした言葉ですよね? 私たちはだいたい多数決で、相手の確信を捨てさせてでも、自分の信念を押し通してしまいます。
けれど、平和を実現する態度って、まさにこういうことだと思うんです。私の正しさで相手の正しさを捨てさせない。むしろ、相手が本当に大事にしようとしていることを互いが見つけ、一緒に大事にする方法を探していく……それが「裁かない方法」なんじゃないかと思います。
経済の回復を大事にしようとする人も、市民の安全を優先しようとする人も、防衛を強化しようとする人も、社会福祉を充実させようとする人も、たった一つのキーワードで、裁き合いが始まりますが、自由や、命や、仲間や、つながりを大事にするため、それぞれが持っている確信には、きっと認め合える部分が見つかるでしょう。
かつて、全ての人のために十字架にかかったイエス様は、対立するグループであった律法学者やファリサイ派に対し、「あなたは神の国から遠くない」「正しい答えだ」と返されることがありました。弟子たちも仰天したと思います。基本的には、ずっと批判している相手だったからです。
この方は、私たちが侮り、裁き、批判している人のためにも十字架にかかってくださいました。私たちが「兄弟」と言えない相手のことも、「友」と呼べない人のことも、見捨てず、敬い、愛してきました。同じ食卓についたんです。私たちも、自分が裁いてしまう相手と、同じテーブルへ着くために、新しい一歩を、今このとき踏み出しましょう。
《お祈り》
愛と平和の源である私たちの神様。今日この場に、様々な違いを持つ私たちが、共に招かれたことを感謝致します。どうか今、一人一人の確信が整えられ、強められ、誠実に導かれますように。互いに裁き合うことをやめ、互いが大事にしているものを見つけられますように。そして、あなたの用意された食卓に、一緒に着くことができますように。人と人との間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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