あなたがたの子供にも【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 使徒言行録2:37〜47
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
今日は、花の日こどもの日の礼拝です。花の日というのは、もともと150年くらい前に、アメリカのメソジスト教会で始まった、子ども向けの教会行事で、子どもたちのために、特別なプログラムを用意したり、「幼児祝福式」を行ったり、一人一人の誕生を、成長を、みんなで祝福するイベントです。
伝統的に、夏の花が咲き始める頃に行われ、各家庭から好きな花を持ち寄って、礼拝堂に飾り付け、花束を作って、その町でお世話になっている消防署や警察署、病院や高齢者施設、自宅で療養している人たちのところへ持っていきます。そうして、子どもたちに、感謝の気持ちや、神様の咲かせた恵みを、みんなで分かち合う機会を作ってきました。
残念ながら、医療施設への花の持ち込みが制限されたり、コロナ禍で訪問自体が難しくなったりして、多くの教会と幼稚園で、花の日に直接、花束を持っていくことはできなくなりました。それどころか、不景気や感染症の影響により、子どもたちの数も減り、この日に、幼児祝福式を希望する家庭も、ほとんどなくなってしまいました。
コロナ禍に入って数年間、教会学校のデイキャンプも、幼稚園の同窓会も、教会と幼稚園が一緒にしてきたバザーの集まりも、子どもたちを呼べないことが続きました。今年度は、岐阜地区のサマーキャンプと合流したり、夏祭りと同窓会を企画したり、再び子どもたちが集まれるように準備していますが、既に小学校を卒業していった子どももいます。
幼児と呼べる歳ではなくなり、祝福式のタイミングを逃した家庭もあるでしょう。せっかくだから、この日に孫を誘おうと、子どもたちを呼んでみようと、思われていた信徒の方も、一緒に来るきっかけを失ってしまったかもしれません。結局今日は、自分たちだけで教会へ来て、離れて過ごす子どもたちを思い出す人が、多いかもしれません。
実は、似たような状況の人が、聖書の中にも出てきます。それは、イエス様の弟子たちが、約束された聖霊を受け、天下のあらゆる国の言葉で、語り出すのを見た人たちです。その多くは、何世代か前に、捕虜として外国へ連れて行かれ、自分たちの代で、ようやく故郷へ帰ってこれた、外国出身のユダヤ人です。
五旬祭の日、彼らは数世代ぶりに故郷へ集まり、収穫の恵みに感謝して、神様へ礼拝をささげようとしていました。しかし、何代か続けて過ごした外国から、一族全員で帰ってきた家族は少なかったでしょう。家も財産も残っていない、仕事があるかも分からない、そんな故郷へ一緒に帰ると、決心できなかった親戚が、きっと数多くいたでしょう。
エルサレムへ帰ってきた、信心深いユダヤ人の中には、自分の息子や娘たちは、外国に残ることを選択した人、祖父母や従兄弟は、向こうで暮らすことを選んだ人が、当然ながら存在しました。この日、彼らは数世代ぶりに故郷の祭りへ参加しながら、離れたところにいる子どもたち、孫たち、従兄弟や親戚を思い浮かべずにはいられなかったでしょう。
そんな彼らへ、特別な出来事が起きました。自分たちが置いてきた、遠く離れた外国に住む、孫や、子どもや、親戚と、同じ国の言葉で話し出す者が現れました。その人たちはここにいる自分たち、エルサレムの住民だけでなく、イスラエルの外にいる、離れたところにいる全ての人に約束された、神の救いを告げ知らせます。
神の子イエス・キリストは、エルサレムの神殿に集まって、礼拝しに来た人だけでなく全ての人を、神の国へと招いている。今日、一緒に集まれなかった人たちにも、礼拝に呼べなかった人たちにも、罪を赦され、新しくされ、永遠の命が与えられるよう、聖霊を送って導いてくださる。ペトロは、弟子たちを代表して、はっきり告げます。
「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」……あなたたちの子供にも、遠くにいるすべての人にも……それは、ここにいない子供たちや、家族や友達を思い浮かべる人たちに、今も希望を与えています。
聖書にはその日、ペトロの言葉を聞いて、3千人ほどが洗礼を受け、仲間に加わったことが書かれています。彼らは、弟子たちの教えを聞き、相互の交わりを大切にし、パンを裂くこと、祈ることに熱心な共同体になりました。「パンを裂く」と言えば、キリスト教の「聖餐式」、信仰者が信仰者であり続けるための式が思い出されます。
イエス様を信じて洗礼を受けた人が、自分たちのために、十字架にかかって命をささげ、3日目に復活してくださったイエス・キリストを思い起こし、信仰を更新する、新たにしていく食事です。だから、信徒の一人一人は、自分が信仰的に弱っている、信仰者としてふさわしくないと思うときこそ、このパンと杯を受け、キリストの恵みにあずかります。
一方、まだ洗礼を受けていない信徒の家族や信仰告白をしていない子どもたちは、聖餐式でパンとぶどう液が配られるとき、受け取らないで、待ってもらっています。これは、資格がないから、ふさわしくないから、配らないのではなく、「神様を信じた人が、信じ続けるための式」であることを、本人が納得して、受けとってもらうようにするためです。
もし、信仰を告白してない人が、誤って受け取ってしまっても、知らずにいただいてしまっても、罰を受けたり、神様に責められることはありません。教会員も、間違えてパンと杯をいただいた人を、責めたり怒ったりしてはいけません。何のために、どんな意味で行われているのか、伝わらない聖餐式をしてしまった、私たちの落ち度だからです。
礼拝のメッセージが「神の言葉の見えないしるし」であるならば、聖餐式は「神の言葉の見えるしるし」と呼ばれます。信仰者が、キリストの死と復活を思い起こしてする食事は、居合わせた人々に、自分もこの民に招かれている、この食卓へ加えられたいと、信じる気持ちを芽生えさせる、力と働きを持っています。
私たちは「信じない者」と「信じる者」を区別するために、パンと杯をいただくのではありません。そこに集まった人たちが「信じない者」から「信じる者」となるように、パンと杯を受けて証しするんです。もしその場に、パンと杯を受け取らない人がいるのならその人もパンと杯を一緒にいただく日が訪れるよう、私たちは祈りを合わせるんです。
さて、今日はこの後、聖餐式ではなく、愛餐式を予定しています。愛餐とは、イエス様が、飢えている人たちにパンを与え、避けられていた人たちと、共に食事にあずかった、数々の出来事を記念して、パン菓子や水をみんなでいただき、神の祝福を分かち合う食事です。
愛餐式は、新来者が多く集まる教会行事で行われる他、洗礼を受ける前の子どもたちが神の恵みを一緒に分かち合う「喜び」と「学び」にあずかるため、私たちが準備し、整えることを期待されている食事です。今日は、イエス様が招かれた子どもたちや信徒の家族、初めて教会に来た人たち、学校から来た生徒たちと、共に恵みを分け合いましょう。
そして、まだ信仰がよく分からない人、祈る気持ちになれない人、どうしたらいいか分からなくなって、うずくまっている人たちにも、救いが約束されていることを伝えながら、必要な気づき、必要な力、必要な助けが与えられるように、聖霊を求めて、賛美の歌をささげましょう。
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