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聞けるはずないのに【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 エゼキエル書37:1〜6、使徒言行録2:1〜11

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 キリストの復活を祝うイースターから50日目、弟子たちに聖霊が送られたことを記念するペンテコステを迎えました。この日、弟子たちはイエス様が姿を消してから、10日目の朝を迎えていました。イエス様は、十字架にかかって死んだ後、3日目に甦り、40日にわたって人々の前に姿を現してくれましたが、ずっと一緒に居てはくれませんでした。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」そう言い残すと、弟子たちが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなりました。そこから10日間、弟子たちは一つになって、家の中で祈っていました。

 何を祈っていたんでしょう? イエス様が約束した聖霊を待って、聖霊を早く受けられるように、祈っていたんでしょうか? それとも、イエス様自身が、天から地上へ戻ってくるように、早く帰ってきてくれるように、祈っていたんでしょうか? 私は後者じゃないかと思います。

 使徒言行録の冒頭を見ると、弟子たちはイエス様が離れ去って行かれるとき、何の準備もできていないようでした。呆然と、天を見上げて立っていました。別れの言葉も、感謝の言葉も送れません。イエス様が、父なる神の右の座に、天の王座に着かれるとき、弟子たちは地上で固まったまま、何もできませんでした。

 そこから10日間、彼らはイエス様の母マリアやイエス様の兄弟たち、一緒に仕えていた女性の弟子たちと集まって、熱心に祈りを合わせていました。せっかく生き返った息子がいなくなり、一人にされた母親が、弟子たちと何を祈るのか? 答えは決まっています。息子との再会です。約束された聖霊よりも、イエス様との再会で頭が一杯だったでしょう。

 弟子たちだって同じです。彼らは天の使いにこう言われました。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」……これを聞いたら、自分たちに聖霊が降る約束よりも、イエス様が再び来られる日のことで、頭が一杯になるでしょう。

 イエス様、早く帰ってきてください。天から降りて来てください。何を聞けばいいか、何を語ればいいか、何を行えばいいか、話しに来てください。直接姿を現して、この国を建て直してください。病人を癒し、悪人を裁き、貧者にパンをもたらしてください。私たちはあなたがいないとダメなんです。

 そう、弟子たちは、イエス様が天に上げられるとき、見送る準備ができていませんでした。さらにその後、イエス様から約束された聖霊を受ける準備さえ、十分できてはいませんでした。彼らの祈りは、閉じこもる自分のもとに、助けが来てくれることを待つもので、自分自身が遣わされ、語らされる用意なんて、誰もできていなかったんです。

 だって、そうでしょう? 聖霊を受けるということは、何も言えなかった自分が何かを語らされ、何もできなかった自分がどこかへ送り出されるということです。奏楽者を欲して待っていた人が、オルガンを弾くようになる。子どもたちに来てほしいと待っていた人が、教会学校のスタッフになる。牧師が来るのを待っていた人が、神学校へ通い始める。

 それくらい、自分から願えないことです。弟子たちも、人々に福音を、良い知らせを伝えるために求めていたのは、イエス様が再び来てくれることでした。自分自身が、イエス様の教えと業を語るため、人々の前へ遣わされるのは、簡単には願えないことでした。聖霊を受けるということは、怖くて行けなかったところへ、行く者になるということです。

 さあ、皆さんは聖霊を求める祈りができるでしょうか? 「御心のとおりになりますように」「神様の望んだとおりになりますように」と、自分を送り出す“霊”を受け入れることができるでしょうか? けっこう難しいですよね? 私だって「御心のとおりになりますように」と祈ることは未だに恐ろしく感じます。

 神様が私に何をさせようとしているのか、どんな道を歩ませようとしているのか、不安だからです。教えることは苦手です。人前で話すのは怖いです。ストレスに強くありません。信仰に自信がありません。そんな私に、どこで、何を、どのように語らせようとするのか、分かったもんじゃありません。聖霊を求めるって、私からなかなかできません。

 でも、イエス様は弟子たちに送った聖霊を、私にも送ってくださいます。聖霊を受ける準備のない、自分から求められない私にも、毎週、語る力をくださいます。この方は、私たちが受け取れなかったはずのものを、受け取らせてしまうんです。最初に読んだ、エゼキエル書37章には、神様が預言者に向かって、次のように命じていました。

 「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」……いやいや枯れた骨に語りかけても、答えられるはずありません。死んでから何年も経って、耳も鼓膜も腐っています。

 枯れた骨には、「わたしを生き返らせてください」と求めることもできません。神様が吹き込む霊を求めて、受けとめる準備はできません。ところが、神様はこの骨に、声を届かせてしまいます。聞けるはずなかった言葉を聞かせ、生き返らせてしまいます。答えるはずのなかった、立ち上がるはずのなかった者を、歩き出させてしまうんです。

 たとえ、私に受けとめる準備がなくても、神様は、私の乾いた骨に筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆って、霊を受けとめる準備をさせてくださいます。皆さんが今、聖霊を求めることができなくても、どのように祈ればいいか分からなくても、新しい生き方をもたらす聖霊は、必ずあなたの中に吹き入れられます。

 五旬祭の日、聖霊を受けた弟子たちのもとへ集まってきた人々は、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞きました。それは、ガリラヤ出身の弟子たちには、話せるはずのない言語でした。パルティア、メディア、エラムから来た者も、メソポタミア、ユダヤ、カパドキアから来た者も、弟子たちが自分の故郷の言葉で話しているのを聞きました。

 実は、これらの故郷の言葉は、弟子たちが「話せるはずのない言葉」であると同時に、その時代、その場所では、誰も、自分の故郷の言葉として「聞けるはずのない言葉」でした。なぜなら、ここに出てくる地名には、もうなくなった地域の名前や、もう滅ぼされた民族の名前もあったからです。

 その時代、エルサレムで、弟子たちの言葉を聞けるはずのない人たちが、自分の故郷の言葉で、イエス様の教えと業が語られるのを聞きました。それこそ、自分から求めて聞くことはできません。過去の人間が、もう消滅した人々が、イエス様を知らないはずの人たちが、聖霊によって語らされる言葉を聞いたんです。

 神様は、あなたが聞けるはずのない言葉を聞かせ、受けられなかったものを受けさせ、自分から求めることさえできなかった、新しい道を歩ませます。枯れたまま、傷ついたまま、閉じこもったままにさせません。今も、これからも、私たちを戸惑わせ、驚かせながら、救いの道を実現されます。

 主は言われます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか?」……私たちはもう知っています。枯れた骨は生き返ります。霊のなかった者は吹き込まれます。倒れていた者は自分の足で立つようになります。あなたもその一人です。私自身がその証人です。あなたもキリストの証し人として、行きなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。