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信仰以外は捨てなさい?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 コリントの信徒への手紙二11:7〜11

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」……こう聞くと、信仰者は自分の努力、才能、築き上げてきた信頼を、一切誇ってはならず、全てを神様のおかげ、イエス様のおかげとして、感謝しなければならないんだと、釘を刺された気分になるかもしれません。
 
もちろん、自分が努力できたのも、才能が与えられたのも、色んな人との信頼関係が築けてきたのも、神様の恵みと導きのおかげですが、自分で自分のことを一切誇れない生き方は、なかなか窮屈に感じます。テストで良い点を取っても、大会で賞を取っても、大きな目標を達成しても、自分で自分を褒めようとしたら止められる。
 
自分ではなく、神様に感謝しなさい。あなたの努力ではなく、神様のおかげと思いなさい。自分で自分のことを誇ったら、信仰者としてふさわしくない……もしかしたら、教会で、家庭で、そのように教えられてきた人が、いるかもしれません。でも、神様って、自分の成果は、自分の努力は、褒めさせてくれないんだろうか?

確かに、宣教者パウロは、自分の行いによってではなく、イエス様への信仰によって、神の子とされ、救いにあずかることができると教えました。何かの掟を守ったから、何かの条件を満たしたから、神の国へ受け入れられるのではなく、イエス様が自分を神の国へ招いていると信じることで、神の国へ受け入れられると語りました。
 
ですがそれは、自分の努力、自分が積み上げてきたものに、価値を見出してはならないという教えではありません。神様は、「がんばったよ」「ここまできたよ」という我が子の声に「よくやったね」「ずっと見てたよ」と応えさせない方ではありません。むしろ、誰よりも、私たちの隠れた行い、見てほしい姿を、目に留め続けてきたお方です。
 
パウロが「誇ってはならない」と言ったのは、割礼を受けた人たちが、割礼を受けてない人たちに対し、自分を誇り、同じ信仰者として相手を認めようとしなかったからです。割礼とは、男性の包皮の一部を切り取る儀式で、伝統的なユダヤ人、神の民として選ばれた者の証でした。
 
ユダヤ人であれば、幼少期に親や教師から施されますが、割礼の風習がない異邦人にとって、成人してから受けるのは大きなハードルがありました。大の大人が、誰かに自分の包皮を晒し、一部を切り取ってもらわなければならない。現代であれば、それを強いることは、性的虐待、性暴力の一つです。
 
また、傷が癒えるには時間がかかり、当然、しばらくの間、痛みに悩まされます。まともに仕事もできません。その間に収入が入ってこなくなったり、仕事を失ってしまったりすれば、家族を養うのが困難になります。たとえ、羞恥や痛みを受け入れるだけの覚悟があっても、妻や子どもの生活を案じて、割礼に踏み切れない人たちも居たでしょう。
 
そんな中、「割礼を受けた私はあなたと違う」「私は割礼を受けたから救われるが、あなたは救われない」と言い放つ人々、偽教師や偽使徒と呼ばれる人が、あちこちの教会に訪れていました。聖書に書かれていることを実行できたか、守れているかで、神の子として認められるか、神の国に受け入れられるかが決まるんだ、と教えてしまう教師がいました。
 
そこで、パウロは一生懸命、行いによってではなく、信仰によって救われることを訴えます。神様は、私たち一人一人の努力や行いを見ているし、善い行いを喜んでくださるけれど、一定の努力や条件を満たさなければ、救ってくれない方じゃない。どの掟を守ったか、どの水準に達したかで、人の間に線を引くのは、神様が喜ぶことじゃない。
 
そして、割礼を受けている人も、割礼を受けてない人も、共に誇ることのできる一つの出来事を示します。それが、わたしたちの主イエス・キリストの十字架です。本来、イエス様がはりつけにされた十字架は、誇ることができるものではありません。それは、自分が拒絶していた、迫害していた、罪を被せて見捨ててしまった、救い主の姿だからです。
 
しかし、その十字架にかかったイエス様が、私たちのために罪をとりなし、復活し、新しく出会って、和解をもたらしてくださった、私たちを新たに弟子として、友として、兄弟として呼んでくださった……この方に呼ばれたことが、招かれたことが、信仰者としての誇りです。イエス様に新しく出会って、ここに集まっていることが、私たちの誇りです。
 
パウロは力強く言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」……信仰者として大事なのは、どの掟を守ったかではなく、これからどのように生きていくかです。それは、キリストの弟子になる生き方です。イエス様は、弟子たちに対し、かつて、このようにおっしゃっていました。
 
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」……たいへん厳しい言葉です。直前には、こんな言葉もあります。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

新たな問題が発生します。信仰者として、新しく創造される、新しい生き方を与えられるとは、全てを捨てて、イエス様だけについていくということなのか? 家族への愛も、自分への愛も切り捨てて、イエス様だけを愛しなさいということのなか? 信仰以外は捨てなさいと……でも、これってむしろ、私たちがイメージする「信仰」とは逆のことです。
 
「父と母を敬いなさい」と十戒にも書いてあるのに、父と母どころか、妻や子ども、姉妹までをも憎むなんて、「信仰的」な姿に見えません。イエス様は、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と言ってきたのに、家族を憎まなければ、自分の命まで憎まなければ、わたしの弟子ではありえない……なんて、明らかにおかしい言い分です。
 
実際、イエス様が自分の母を、弟子たちの家族を、憎む様子はありません。むしろ、ペトロの姑の熱を癒し、ヤコブとヨハネに捨てられたはずの親と対話し、自分の母マリアのことを使徒ヨハネに託します。家族を捨てて、ついてきたように見える弟子たちのその後は、決して家族と関係を切ったままではありません。
 
一方で、イエス様が家族と、兄弟と、上手くいかなかったシーンも出てきます。理解されず、皮肉を言われ、責められたシーンも出てきます。信仰があれば、家族を憎むことなんてない。信仰があれば、自分が消えたくなることもない。常に平安で、立派な人格者でいられる……そんなイメージを打ち砕きます。
 
現実に、私たちが信仰生活を続ける中で、家族や兄弟と上手くいかないシーンは何度もあります。日曜日に家を空けること、葬儀をキリスト教式でやりたいこと、いくらか献金をささげること……上手く説明できなかったり、理解してもらえなかったり、熱くなって相手を傷つけてしまったり、信仰を持ったゆえに出てくる悩みが発生します。
 
そんな中、ある人たちは、さりげなく自分のことを誇ります。「家族と上手くいっている私はあなたと違う」「私は家族を憎まず過ごせているから、神の子として認められるが、家族を憎んでしまうあなたは神の子として認められず、救われない」……割礼を受けてない異邦人に対し、割礼を受けている人たちが自分を誇って責めたのと、実は似ています。
 
「互いに愛し合いなさい」「敵を愛しなさい」……イエス様は困難な教えを語りつつ、自分の弟子になる人が、自分を信じる人たちが、家族を憎んでしまう、自ら消えたくなってしまうことを「不信仰」だと言いませんでした。むしろ、自分の十字架を背負うということは、イエス様についていくことは、上手くいかないことの連続なんだと語りました。
 
愛しているのに家族を憎んでしまう人、兄弟と上手くいかない人、それによって、自分の十字架、自分の重荷を背負っている人……神の子として、信仰者として、ふさわしくないと思っているなら、あなたは気づかなければなりません。あなたはイエス・キリストの弟子であり、新しく創造されている者であると。
 
あなたはキリストの焼き印を受け、神の国に迎えられる者として、イエス様と一緒に、軛を負った人間です。新しく変えられ続ける人間です。この方に出会えたことを、誇りに思いなさい。この方に選ばれたことを思い出しなさい。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。アーメン」

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。