信仰の失格者?【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》テモテへの手紙二3:1〜9
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
テモテへの手紙二3章の冒頭には、新共同訳で「終わりの時の人々の有様」という見出しが振ってあります。聖書協会共同訳だと「終わりの日の」となっていますが、ほぼ同じ見出しです。こういう見出しは、もともと聖書の原文にはなかったもので、日本語に聖書が翻訳されるとき、読者が記事を探しやすいように、後から付けられていったものです。
そのため、礼拝や祈祷会の聖書朗読では基本的に読まれませんが、聖書箇所を見つける際には便利ですよね。そして、今回の見出しには、多くの人が、興味を惹かれることでしょう。「終わりの時」「終わりの日」における人々の有様について……いわゆる「終末」の出来事が、あらかじめ預言されているところです。
「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります」……仏教の末法思想にも「正しい教えが全く実行されない時代がやって来る」という歴史観があるそうですが、ちょっと似ているように感じます。
キリスト教の終末思想でも、将来的に「患難の時代」がやってくるという教えがあり、テモテへの手紙以外にも、所々に出てきます。たとえば、マタイによる福音書24章には、「偽メシア、偽預言者の出現」「戦争の噂」「民と民、国と国との対立」「飢饉や地震」「迫害と殉教」「背教と裏切り」「不法の蔓延」などが終末の徴として出てきます。
特に、「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」という描写は、テモテへの手紙に出てくる「終わりの日」の描写と重なっているように見えてきます。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するように」なる。
ローマの信徒への手紙1章29節から31節にも、神の裁きを受ける人について同様の「悪徳表」が挙げられていました。「彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」……だいぶ似た言葉が並んでいますよね?
ただし、ローマの信徒への手紙に出てくる「終わりの日」の有様は、キリスト教の外側、教会の外側を描いているように見えますが、テモテへの手紙に出てくる「終わりの日」の有様は、キリスト教の内側、教会内部の悪徳を指摘していることに注意しなければなりません。信仰を告白した私たちも、これは他人事ではないんだ……と。
注解書によっては、「これらの悪徳はすべて現実に教会の中で行われていたにちがいない」とまで出てきます。でも実際、私たちの身の回りでも、珍しいことじゃないですよね? 自分自身を愛して、他者を思いやることのない人々……学校でも、職場でも、教会でも、そういう場面に、でくわしたことがないとは言えません。
何であんなこと言っちゃうの? 何でそんなことやっちゃうの? と憤慨する出来事があらゆるところで起きています。金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になる人も、決して珍しくないでしょう。教会の中でも金銭トラブルは起きますし、牧師や信徒でも嘘をつく人はおりますし、高慢になる人なんて、自分を含め、いっぱい思い浮かびます。
情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になる……これも、教会員同士、牧師同士で仲直りができないことや、SNS 上でクリスチャンが誹謗中傷を繰り返し、節度のない報復を行っている現状が、けっこう簡単に見えてきます。神様を敬っているように見せながら、神様を使って、差別や攻撃を行っている姿も多々見られます。
「終わりの日」「終わりの時」の人々の有様と言われながら、実は、古代から現代に至るまで、人類がさらしてきた姿です。戦場や紛争地帯にいる人々は、ゴミのように殺されていく同胞や家族を見つめながら、まさに今、「終わりの時」が来ていると感じていることでしょう。
差別や虐待を受けている人々は、自分に向けられた悪意と残忍さを見つめながら、まさに今、「終わりの時」が来ていると感じていることでしょう。不義や不正に苦しめられ、悪事を正そうとして、かえって迫害を受けている人々は、まさに今、「終わりの時」が来ていると感じていることでしょう。
救いも、癒しも期待できず、全てが悪い方へ展開し、何もかも終わりに向かって進んでいるように感じられる。そんな世の中が、どの時代にもありました。過去にも、現代にもありました。「もう終わりだ」「最悪の展開がやってくる」……そのように思わざるを得ない現実が、教会の中にもありました。
テモテへの手紙をはじめ、いくつかの手紙で赤裸々に、教会内部の問題が告白されています。ユダヤ人と異邦人の間で差別が起きてしまったこと、金儲けに走る教師や信者が出てしまったこと、性加害や誘惑する者が出ていたこと、人々の生活や関係性を破壊するような異端が起こってしまったこと……。
救いを求めてやってきた教会の中にまで、そのような問題が溢れてくるなんて、世も末だと言いたくなります。希望が潰えたと感じてきます。しかし、聖書に出てくる「終わりの時」「終わりの日」に関する記述は、まさに今、世界が終わりに向かっていることを、絶望的な展開が待っていることを、伝えるものじゃないんです。
むしろ、世の終わりが迫っているようにしか思えないときも、神の救いの計画は始まっている、進んでいることを思い出させるものなんです。実際、テモテへの手紙の著者は、終末の接近を強調して、このような記述を残したわけではありませんでした。むしろ、教会の中でさえ、悪の支配が進んでいるような現実を前に、絶望している仲間たちへ、希望と励ましを語るために、「このまま終わるわけじゃない」と訴えたんです。
マタイによる福音書24章で、終末の徴について語ったイエス様の言葉もそうでした。神の子が処刑される、悪が力を奮っている……まさに今、世界が終わりに向かって、希望が潰えていくように見える中、キリストは弟子たちに「こういうことが起こるときも、神の救いの計画は、完成に向かって進んでいる」と教えたんです。
テモテへの手紙では、出エジプト記の出来事を思い出させることで、教会における悪の支配が、このまま放置されないことを確信させます。ここでは、モーセに逆らったヤンネとヤンブレが「信仰の失格者」として出てきます。2人の名前は、旧約聖書には出てきませんが、後期ユダヤ教タルグム(旧約聖書をアラム語で翻訳し、解釈するもの)の中で、エジプトの呪術師として出てきました。
エジプトと言えば、イスラエル人を奴隷にし、なかなか解放しなかった大国として有名です。イスラエル人は、日に日に重くなっていく虐待と労役に苦しみ叫ぶ毎日でした。その中で、ファラオに仕える魔術師たちは、ファラオがモーセの言うことを聞いて、イスラエル人を解放しないように、何度も邪魔する存在でした。
モーセが川の水を血に変えると、彼らも秘術を用いて、同じことをして見せました。モーセがカエルをエジプト中に這い上がらせると、彼らも秘術を用いて、同じことをして見せました。しかし、その後も、モーセと戦い続けた魔術師たちは、やがて「これは神の指の働きでございます」とファラオに訴え、ファラオの家臣たちも、神を恐れるようになっていきます。
「信仰の失格者」と呼ばれた魔術師たちは、「神を畏れる者」となり、神が遣わしたモーセの言葉を、無視できない者となっていきます。それは、教会を迫害していた、もともと反キリストの人間だった宣教者パウロも同じです。パウロに追われ、捕えられ、処刑されてきた信者たちは、まさか、あのパウロがイエス様を信じて仲間になるとは思えなかったでしょう。
「もう終わりだ」「彼を止めることはできない」と思っていたでしょう。しかし、終わりに向かって、進んでいるように見えたこの世界は、神の救いの計画を止めることができません。神様は「信仰の失格者」であった「神を恐れなかった人々」を「神を畏れる者」へと変化させ、新しく、キリストの弟子に加えていきます。
パウロと、パウロの弟子たちは、その出来事を振り返りつつ、信仰の失格者が「これ以上はびこらないでしょう」と励まして、人々に希望を持たせました。この世界も、教会も悪の支配で終わることなんてありません。私たちを見てください、私たちがどう変えられたかを見てください……と。だから、私たちも希望を持って、この現実と向かい合いましょう。
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