ここで別れよう【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 創世記13:1〜18
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
聖書に出てくる「アブラム」という人物は、後に、神様から「アブラハム」と改名され「信仰の父」と呼ばれるようになった人物です。彼が、そう呼ばれるようになった所以の一つに、創世記12章に出てくる「アブラハムの召命」という出来事があります。「召命」というのは、神様から選ばれて、特別な使命を与えられることです。
神様は、ある日突然、アブラハムに向かってこう命じます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」……このとき、アブラハムは75歳でした。後に「サラ」と改名される妻のサライも、10歳年下とはいえ、65歳です。
その歳で、「生まれ故郷を離れて、知らない土地へ行きなさい」なんて命じられるのは、かなり暴力的に感じます。現代のように、車やトラックがあるわけではありません。道中に、サービスエリアやコンビニがあるわけでもありません。食べ物や水を得るだけでも一苦労です。けっこうなサバイバル生活を行いながら、目的地を目指さなければなりません。
普通だったら「それはちょっと……」と断る理由を考えるでしょう。「わたしも、もう歳ですから」「父が亡くなったばかりですから」「わたしを大いなる国民にすると言っても、妻とは子どもができず、後継者だっておりません」……言い訳はいくらでも出てきます。自分を「大いなる国民にする」「祝福する」という言葉も、そう簡単に信じられません。
ところが、アブラハムは神様に命じられると、あっさりその言葉に従って旅立ちます。父親に先立たれた甥のロトと、ハランで仲間になった人々を加え、カナン地方へ向かって出発し、その地方に入って行きました。75歳で、すぐ従ったアブラハムにも驚きますが、彼にそのまま付いていく家族や従者にも驚かされます。
だって、身内がいきなり、「神様に命じられたから、知らない土地へ出発しよう」と言い出したら、とりあえず止めようとするのが普通です。「あなた、冷静になって!」「叔父さん、それは無茶だって!」……たとえ、本当に神様が命じたんだと分かっても、「もう少し何とかならないか聞いてみよう」と言いたくなります。
想像してください。皆さんのお連れ合いが、いきなり神様に命じられて「仕事をやめて牧師になる」と言い出したら、「分かった、一緒にがんばろう!」とは、即答できませんよね。皆さんの叔父さんが、お父さんが、もう歳なのに「知らない土地へ行って、開拓伝道をするよう命じられた」と言ってきたら、「神様それはちょっと……」ってなりますよね。
ところが、アブラハムも、彼の家族も、彼についてきた人たちも、割とあっさり、神様の言葉を受け入れて、知らない土地へ出発します。神様が命じたのだから、必ず何とかしてくれる……そのような信頼があったんでしょうか? それとも、もともと住んでいた土地に、全く未練がなかったんでしょうか?
そういえば、神様はアブラハムに対し、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」と命じていますが、実は、彼らが住んでいた土地は、生まれ故郷でも何でもありませんでした。アブラハムとその兄弟が生まれたのは、カルデラのウルという所で、彼らの父、テラの家も、もともとそこにありました。
ところが、テラは息子、孫、嫁たちを連れ、生まれ故郷を出発し、カナン地方に向かいます。実は、「生まれ故郷、父の家を離れて」出発したのは、アブラハムというより、彼の父親の代でした。しかし、アブラハムの父親は、カナン地方へ行く途中、亡くなった末っ子と同じ名前の「ハラン」という土地に到着すると、そこに留まってしまいます。
結局、アブラハムの父親は、死ぬまでそこに留まって、再び、カナン地方へ旅立つことはありませんでした。最初から、カナンへ行く途中にハランという土地があるのを知って出発したのか、たまたま見つけてしまったのかは分かりませんが、いずれにせよ、カナン地方に入ることなく、その生涯を終えてしまいます。
このように、神様が命じた「わたしが示す地に行きなさい」という言葉は、アブラハムや親族にとって、いきなり語られたものではなく、彼らの父親の代から目指していたことでした。彼らの住んでいたハランの地は、カナン地方へ行く途中の場所で、父の末っ子で、アブラハムの弟であった、ハランの死をきっかけに、長居していた土地だったんです。
もしかしたら、アブラハムとその親族は、もともと目指していた土地に向かうこと自体抵抗はなかったのかもしれません。父親が、一族が、目指していたカナン地方に、大きな期待を膨らませていたのかもしれません。父を弔い、心残りの無くなった彼らは、蓄えた財産を全て携え、目的地へと入っていきます。
ところが、アブラハムたちは、カナン地方に到着すると、そこから離れて、ベテルの東の山へ移り、さらに旅を続けて、ネゲブ地方へ移り住みます。カナン地方に入ったとき、神様がアブラハムに現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言ってきたにもかかわらず、アブラハムはそこに祭壇を築くと、すぐ他の土地へ移ってしまうんです。
神様から「与える」と言われた土地は、アブラハムたちの目から見ると、魅力的には映らなかったのかもしれません。当時、その土地にはカナン人が住んでいました。初めて見る先住民と上手くやれるか不安だったのかもしれません。また、水が豊富な肥沃な土地というわけでもなく、期待していたほど住みやすい場所には見えなったのでしょう。
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、実は、神様が「与える」と言われた土地にすぐ移り住んだわけではありませんでした。父の代から目指していた土地へ出発することはすぐ決断しますが、いざ、その土地を目にすると、移り住む選択はできません。結局、他の土地を探し回り、神様に示された土地ではない、ネゲブ地方へ移り住みます。
けれども、ネゲブ地方に移った彼らは、まもなく飢饉に襲われます。そこで大人しく、神様が与えたカナンの地へ戻っていくかと思いきや、見渡すかぎりよく潤っていたエジプトの地に下っていき、そこへ滞在することにします。どうもアブラハムの旅全体は「神の命令にすぐ従った」というよりも、なかなか従えない姿を映しているように見えてきます。
実際、アブラハムは自分の妻サラが美しいのを見て、エジプト人に嫉妬されてしまうのを恐れ、彼女に「妻」ではなく「妹」と偽るように言い聞かせ、隣人に関して偽証する罪を犯してしまいました。さらに、自分の妻が、エジプトの王ファラオの妻として召し出されても、なお、妹と偽って、贈り物まで黙って受け取ってしまいます。
結局、神様がファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせたので、サラは帰ってくることができましたが、アブラハムは妻を取り返すために、何もできませんでした。けっこう碌でもない男ですよね? こうして、アブラハムは、エジプトに滞在することができなくなり、再び全ての持ち物を携えて、ネゲブ地方とベテルの方へ戻っていきました。
しかし、アブラハムと共に旅をしていた甥のロトも、大きな一族になっていき、双方の家畜や財産が増え、両者が一緒に暮らすには、だんだんと手狭になってきました。そしてとうとうアブラハムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちで争いが起こり、これ以上、同じ場所には暮らせないという結論になりました。
アブラハムはここで、甥のロトに提案します。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか」……そして、ヨルダン川流域の低地一帯と、カナン地方のどっちに移り住むか、選ぶ権利を譲ります。
どちらの土地が住みやすいかは、一目瞭然で、ロトはエデンの園やエジプトの国を思わせる、よく潤った肥沃な土地、東の方へ移り住んでいきました。そこで、アブラハムも、反対の西の方へ移っていきます。こうして、アブラハムはようやく、神様に示され「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われていた、カナン地方へ移り住むことができました。
このように、アブラハムは当初、神様が与えた土地をすぐ受け入れず、そこから離れるように、離れるように、移動していきました。飢饉に遭ってもカナンに戻らず、エジプトを追い出されてもベテルに留まり、ついには、甥のロトからも離れなければ、暮らしていけなくなりました。
しかし、神様は、自分が与えた約束の地を、なかなか受け入れないアブラハムに、根気強く付き合い続け、命じた土地に入るまで、彼らを導き続けます。アブラハムが「信仰の父」と言えるのは、彼自身の力で神様に従い、信仰を保てたからではありません。彼が信仰を保てるように、従うことができるように、神ご自身が、付き合い続けてくださったからです。
今まで一緒に旅をしてきた甥のロトへ「ここで別れよう」と切り出したとき、アブラハムは、このまま自分の一族が、住みにくい土地で小さくなって、一生を終えると想像したかもしれません。今まで、神様にちゃんと従わなかった報いがやってきたと感じていたかもしれません。しかし、神様は、アブラハムと、ここで別れはしませんでした。
むしろ、ようやくカナンに戻ったアブラハムへ、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と促し、見えるかぎりの土地を与え、数えきれない子孫が生まれることを約束します。神様から何度も離れてきた彼に「わたしは必ずあなたと共にいる」と、関係を結び続けてくださいます。
アブラハムの信仰は、そんな神様の恵みによって、吹き込まれ、育まれ、培われてきたものでした。私たちの信仰も同じです。不安や恐れや欲望によって、神様から離れてしまう私たちに、この方はどこまでも付き合い続け、道を整えてくださいます。帰るべきところへ帰ってくるまで、私たちを導き続けます。
だから、この方の声に耳を澄ませ、この方の両手に押し出され、この方の懐へ迎えられましょう。私たちとの関係を、結び続けてくださる主に、感謝の応答をしていきましょう。味わい見よ、主の恵み深さを……アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。