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しばらく助けない【聖書研究】
《はじめに》
華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》使徒言行録16:16〜24
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
キリスト教初のヨーロッパ宣教を開始したパウロたちは、フィリピで洗礼を受けて仲間になった、リディアという女性の家で数日間滞在し、彼女たちが集まる「祈りの場所」に通っていました。ところが、毎日そこへ行く途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷がつきまとうようになります。
彼女の名前は記されませんが、パウロたちと出会って以降、後ろからついてきて、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいました。こんなことを幾日も繰り返されたら、確かに、たまったものじゃありません。目立って仕方ありませんし、うるさくて敵わないでしょう。
でも、言っていることは嘘や出鱈目ではなく、パウロたち一行を表す正しい紹介です。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」……そのとおりですよね? パウロたちは復活したキリストに出会い、聖霊を送られ、お告げを受けて、マケドニアの人々へ伝道しにやって来ました。間違った紹介ではありません。
むしろ、町で多くの人を占っていた女性から、このように宣伝してもらえたら、外国からやって来た無名のパウロたちは、かえって多くの人間に、自分たちが何者で、何のためにやって来たか、何をみんなに伝えたいか、教える機会が広がります。勝手に宣伝してくれるようなものです。
「この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とあるので、まあまあ当たると評判だったのでしょう。余計にみんな気になります。あの女性が「神の僕」と言う人間、あの占い師が「救いの道を宣べ伝えている」と言う人は、いったいどんな人なんだろう? どんな話をしているんだろう?
パウロたちが彼女に叫ばれながら、祈りの場所へ行くのを見て、後からついて来た人もまあまあいたんじゃないかと思います。一緒に彼らの話を聞いて、イエス様を信じるようになった人、洗礼を受けて仲間になった人も、きっと幾らかいたでしょう。占いの霊に取り憑かれていた女性自身、こう叫びながら、彼らに助けを求めていたのかもしれません。
主人たちの金儲けに利用され、占いの霊に取り憑かれ、自由を奪われているこの女性は幾日もパウロたちを追いかけて、彼らの正体を叫び続け、自分へ振り向いてくれるように訴えました。かつて、悪霊に取り憑かれた男たちが、イエス様に向かって「神の聖者だ」「神の子だ」と叫び続け、汚れた霊を追い出されたことが思い出されます。
ところが、パウロたちは幾日も女性のことを放っておきます。すぐには彼女に振り向かず、占いの霊を追い出さず、叫ぶまま、ついてくるまま放置します。よく考えたら可哀想です。すぐ助けてあげればいいものを、取り憑いているものから解放してあげればいいものを、彼らはガン無視するんです。
女性は、毎日彼らを探し続け、見つけては後を追い続け、後ろから叫び続けた末に、ようやく、この一言を言ってもらえました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」……求め続け、探し続け、叩き続けることを繰り返し、ついに自分を救ってくれるイエス・キリストの名前を聞けたんです。
彼女は、旧約聖書で禁じられた「占い」を行っていた女性、宣教師につきまとってうるさく叫び続けた異邦人、パウロたちが捕らえられ投獄されるきっかけを作ってしまった女奴隷……そういった要素から、「迷惑をかけたにもかかわらず、パウロたちに救ってもらった人」というイメージを持たれがちな存在です。
しかし、実は彼女の行動は、イエス様を探し求め、後ろから追い続け、大声で叫び続けた末に、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの願いどおりになるように」と宣言された、カナンの女性と同様に、イエス様自身が「信仰を認めた姿」の一つでした。パウロたちも、幾日か、彼女が叫び続ける中で、気がついたのかもしれません。
最初は彼女につきまとわれ、迷惑だと思っていたけれど、うるさいと思っていたけれど、彼女こそ、イエス様がその信仰を認め、「あなたの願いどおりになるように」と言って、私たちを驚かせた、異邦人の一人じゃないか? イエス様が、ご自分と出会えるよう、私たちを遣わした、相手の一人ではないか?
彼女に振り向くことが、私が神様に立ち帰る、イエス様に立ち帰る、救いの道の始まりじゃないか? 事実、パウロが彼女に振り向いて、イエス・キリストの名を口にしてから、彼は捕らえられ、引き渡され、衣服を剥ぎ取られ、裁判にもかけられないまま鞭打たれ、と、イエス様がたどってきた道のりを、そのまま経験していきます。
ああ、祈りの場所はここにあったのか。ここに、私の来るべき場所があったのか……もともと、いつもの「祈りの場所」へ行くはずだった彼らは、投獄された部屋が「祈りの場所」「キリストの体なる教会」になったことを知り、賛美を歌い、祈りをささげ、他の囚人たちを聞き入らせます。
彼らの予定は狂い、計画は崩れ、この後どうすればいいかも分かりません。にもかかわらず、確信が与えられています。私はここに遣わされ、ここから出発するように、今日まで導かれてきた。リディアの家に引き止められ、占いの霊に憑かれた女性に追いかけられ、囚人たちと同じ部屋に入れられた。
それは、神の計画から外れていく道ではなく、イエス・キリストに立ち帰る、新たな道に他ならない。キリストの霊が、私をここまで導いた。この後も、この先も、神様は必要なとき、必要なところへ、私たちを遣わしてくださる。私たちに必要な場所、必要な人を出会わせてくださる。賛美の声が、部屋中に響き渡り、牢の土台が揺れ動きます。
パウロたちに、しばらく助けてもらえなかった女奴隷は、パウロたちが歩むべき救いの道をもたらしました。彼女が彼らを追い続け、叫び続けたその姿は、単なる「迷惑な人」ではなく、イエス様が「信仰を認めた人」を思い起こす姿になりました。彼女に振り向いたパウロたちは、イエス様の身に起きたことを振り返らされ、ますます力付けられます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(ルカ11:9)」この日、イエス様の教えと業を思い出させ、弟子たちをキリストに立ち帰らせ、彼らを新たな「祈りの場所」へと案内したのは誰でしょう?
皆さんはもう分かるはずです。私たちが、誰かを無視して、教会へ、礼拝へ、行こうとしているとき、実はそこに、新たな祈りの場所の案内人がいるかもしれません。私たちが邪魔に思い、煩わしく感じる人たちこそ、「あなたの願いどおりになるように」とイエス様がおっしゃられた、「信仰の人」かもしれません。
もしも今、厄介ごとに巻き込まれ、誰かに引き渡され、これから責められるように感じているなら、今こそイエス様が歩んだ道のりを思い起こすときかもしれません。あなたがいるところは、神から離れた場所ではなく、教会から遠いところではなく、新たな祈りの場所として、定めれらた場所かもしれません。
教会の宣教は、こうして始まりました。予定していなかった、行きたくないところへ行かされ、会いたくなかった、会う気のなかった人たちに出会わされ、思いもよらぬ家ができ、思いもよらぬ仲間ができて、新しい共同体が築かれていきました。そこは喜びを分かち合う場所になり、驚きを楽しむ場所になり、神を賛美する場所になりました。
奇跡はこれからも続いていきます。たとえ足枷がはめられようと、牢に閉じ込められようと、祈りの場所へ行くことは邪魔されません。神様は、あなたのいるところ、あなたのたどり着いた場所を、新たな祈りの場所とするために、あなたを遣わしてきたからです。さあ、顔を上げ、祈りを合わせ、賛美を歌って、喜びと感謝を分かち合いましょう。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。