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図々しいお願い【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》フィレモンへの手紙17〜25

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 主人のもとから逃げ出した奴隷を、もとの主人へ送り返し、その主人に、奴隷ではなく兄弟として、彼を迎えるようお願いをした宣教者……フィレモンへの手紙を書いた、使徒パウロは、信徒に対して無茶な要求を続けます。「オネシモを私と思って迎え入れてください」自分の教会の指導者から、こんなふうに言われたら、なかなか無碍にはできません。

 しかも、パウロはフィレモンに「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください」とまで語ります。現在進行形で迫害を受け、牢に囚われている宣教者から、信仰のゆえに苦難を受けている大先輩から、ここまで言われてしまっては、断るわけにいきません。

 パウロは14節でフィレモンに、「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちではなく、自発的になされるようにと思うからです」と言っていましたが、もう半ば強制のようなものですよね? ものすごく断りにくい頼み方を、彼は巧みに仕掛けてきます。

 ただし、破壊的カルトのリーダーによく見られるような、断った場合の「脅し」「脅迫」はありません。「もし、この願いを断ったら、あなたに悪魔が入るでしょう」とか、「私の言うことを聞いてくれなければ、神様があなたを守ってくれることもないでしょう」とか不安や恐怖を煽るような強制力の掛け方は、この手紙には見られません。

 また、「私の願いを聞いてくれたら、富と健康に恵まれるでしょう」とか、「私の言うことに従えば、あらゆる困難から守られるでしょう」とか、服従と引き換えの報酬を保証することもありません。自分を助けてくれたら事故に遭わないとか、自分の言うことを聞いたら病が癒やされるとか、特別な効果効能を匂わせて、従わせることもありません。

 むしろ、パウロ自ら負債を負う、借りを作る形で、お願いを受け入れてほしいと頼んできます。また、「わたしパウロが自筆で書いています」と、この手紙が、約束の証書になることも保証します。しかも、この手紙はフィレモンの「家の教会」にいるみんなの前で読み上げられることを前提に書かれた手紙です。

 つまり、パウロは会衆全体を証人にして、フィレモンに約束をするんです。オネシモが作った負債や損害は「わたしが自分で支払いましょう」「私が返済します」と公に宣言するんです。教会の会衆の前で宣言する以上、信者から集めた献金を返済に充てることはできません。彼自身が担う手仕事で、逃亡奴隷の負債や損害を返すことになるわけです。

 さらに、パウロはフィレモンに「わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう」「ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます」とも記します。もし、フィレモンがこの要求を断っても、一方的に彼が責められることのないように、断られても仕方のない「図々しさ」「遠慮のなさ」を押し出して、自由な選択を促します。

「そうです。兄弟よ。主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください」……これは、パウロの本心でしょう。単なる師弟関係ならできない要求を、単なる雇用関係ならあり得ない願いを、あなたたちなら受けてくれると、心から信じて、期待して、つぶやいている言葉です。

 もちろん、こういったやりとりができるのは、それだけ遠慮のない間柄、信頼関係ができていたからでもあるでしょう。加えて、そのやりとりを「家の教会」にいるみんなの前でも読み上げられるわけですから、パウロと会衆全体に、しっかりと信頼関係が築かれていたのだと思います。

 実際、手紙に出てくる最初の挨拶には、「協力者フィレモン」「姉妹アフィア」「戦友アルキポ」といった呼びかけが出てくるように、フィレモンの家族と、家の教会の人たちが、パウロと二人三脚で宣教に励んできた様子が垣間見えます。結びの言葉にも同様に、彼らの仲間、家の教会の身内である、親しい人々の名前が出てきました。

 「私と共に捕らわれの身となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています」「私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです」……不思議ですよね? 捕らわれの身となっているのに、旅行先から送られてくる手紙のように、日常的な言葉で挨拶が綴られます。監禁されている人の台詞じゃないですよね?

 囚人となっているのに、投獄されているのに、パウロがお願いするのは、自分を自由にするための要求ではありません。オネシモを奴隷ではなく、家族として迎えてほしいという頼みです。囚人が、奴隷の解放と受け入れを要求し、それこそが自分の心を元気づける応答だと言うんです。

 そう、パウロは、今の自分を捕らえている状況が、不自由な状況だとは言いません。伝道が、牧会が、宣教が、邪魔されている状況だとは言いません。むしろ、牢獄でオネシモと出会い、自分の子として彼を養い、洗礼を授けて弟子にした、驚きの出来事が告げられます。監禁されて教会へ行けなくなるどころか、監禁場所が教会へと変えられます。

 かつて、負債や損害をもたらした者が、信仰を共有する頼もしい仲間に変えられます。捕らわれの身となっている彼自身も、その仲間も、自分たちの業が封じられ、閉じ込められてしまったとは言えません。ここで喜びが与えられ、ここで希望が与えられ、ここで力が湧いてくるからです。彼らは、慰めの要求ではなく、むしろ励ましを送ります。

 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように」アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。