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ここには遣わされてない?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 マタイによる福音書15:21〜31

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 自分に助けを求めてきた異邦人、非イスラエル人の女性に向かって、イエス様が放った言葉は、私たちに衝撃を与えます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」……これは「主よ、ダビデの子よ、私を憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と訴えてきた女性に対し、イエス様が返した言葉です。

 娘が苦しんでいるから助けてほしい……そのように願う母親に対し、イエス様の返事はあまりに冷たく感じます。しかも、一回目に女性が叫んだときには「何もお答えにならなかった」と書いてあります。女性はその後も叫び続け、イエス様に付きまといます。見かねた弟子たちは「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます」と訴えました。

 女性や子どもに優しく接するイエス様のイメージと正反対です。いったいどうしちゃったんでしょう? 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という返答は、イスラエルの民ではないカナン人の女性に対する拒絶の言葉、人種差別ようにも聞こえてきます。

 一方で、「主よ、ダビデの子よ」という彼女の呼びかけは、イエス様が、神様によって立てられた、イスラエルの王であると信じて期待する呼びかけでもありました。しかし、彼女はカナン人です。カナン人は、かつてイスラエル人が追い出したパレスチナの住民です。神の民として選ばれたイスラエルにとっては、征服するか、排除するべき対象でした。

 一緒に居た弟子たちは、彼女がイエス様を「主」「ダビデの子」と呼ぶのを聞いて、違和感を持ったかもしれません。あなたはカナン人じゃないか? イエス様はイスラエルの王であって、カナン人の王ではないのに、なぜ、自分の王として呼びかけるのか? イエス様が救いに来たのはイスラエルの民であって、あなたたち異邦人じゃないはずだ……と。

 実際、イエス様は女性に対し「あなたはイスラエルの家の者ではない」と言うかのように、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えます。「私が助けるのはイスラエル人だけだ」と言われたようにも聞こえます。しかし、マタイによる福音書8章では、ローマ帝国の百人隊長も、イエス様に助けられていました。

 ローマ帝国の百人隊長は、現在進行形でイスラエルを支配している、神の民を苦しめている、異邦人の人間です。彼もイエス様に助けを求めるとき「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と訴えていました。ちなみに、聖書協会共同訳では、「主よ、私の子が麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいます」と訳されてます。

 訳し方によっては、百人隊長も、カナン人の女性と同じく、「我が子が苦しんでいるから助けてほしい」と願ったことになるわけです。これに対し、イエス様はすぐ「私が行って癒やしてあげよう」と答えていました。どうも、イスラエルの人間だけを救おうとしたわけではなさそうです。むしろ、ローマ帝国の百人隊長を助けるなら、カナン人の女性も助ける方が自然です。どちらも「我が子を助けてほしい」と願った点は変わりません。

 一緒にいた弟子たちも、疑問に思わなかったんでしょうか? 百人隊長の願いは、すぐ答えようとしていたのに、カナン人の女性の願いは、無視しようとするイエス様に「なぜ彼女を無視されるのですか?」「助けてあげないんですか?」と問いかけるのが普通です。ところが、弟子たちの口から出たのはこうでした。

 「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます」……どうやら、弟子たちの中では、イエス様が彼女を無視して助けないのは当然のようでした。イスラエルの家の者ではない、ローマ帝国の百人隊長をイエス様が助けたことも、思い出せないようでした。彼らの反応を見て、イエス様は違和感を持たせる返事をします。

 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」……待ってください。本当にそうですか? あなたはこの前、百人隊長を助けたじゃないですか? 我が子を救ってほしいと願う異邦人の願いを聞いたじゃないですか? 本当に、ここには遣わされてないんですか? わざわざここへ来たのは何のためなんですか?

 実は、イエス様の返事は女性に対してというよりも、弟子たちに違和感を持たせるためであったかもしれません。21節で、ティルスとシドンの地方に来られたイエス様の目的は、はっきりとは明かされていませんでした。しかし、イエス様は、この女性に出会ったあと、すぐそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれます。

 まるで、この地方へやって来たのは、最初からこの女性の願いを聞くためであったかのようです。実際、シドンという地名は、旧約聖書で、預言者エリヤが外国人の女性の息子を癒した場所でもありました。ここで、異邦人の女性が、我が子の助けを求めてきたら、神の人なら応えることが期待される……そんなシーンでもあったんです。

 「イエス様、預言者エリヤも、外国人の女性の願いを聞いたのに、あなたは聞かれないんですか?」「何のためにここまで来たんですか?」このように問いかけても良かったはずです。しかし、弟子たちが女性のためにとりなす姿は、この後も見られませんでした。女性はもう一度ひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と訴えます。

 すると、イエス様はさらにショッキングな言葉を返してきます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」……これは、イスラエルの民を「子供たち」に、異邦人を「小犬」に重ねていると言われるたとえで、かなり差別的、侮辱的な返答です。思わず、「私の子どもを犬呼ばわりですか?」と反撃したくなるでしょう。

 けれども、女性は必死に答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」……私たちはカナン人で、イスラエルの家の者ではないかもしれません。あなたが遣わされたところではないかもしれません。パンをあげようと思った者ではないかもしれません。それでも、パン屑を受け取りたくて、食卓の下へやって来たんです。どうか、主の食卓のパンに、私もあずからせてください。

 このやりとりを聞いて、居心地が悪くなった人は、決して少なくないでしょう。イエス様が異邦人の子どもを「小犬」と表現し、「なぜ、私の家のパンをあなたに分けなければならないのか?」と拒絶しているように見えてしまう……一方、女性は藁にもすがる思いで「パン屑でいいから分けてください」と食卓の下でひれ伏している……。

 このまま、カナン人の女性を追い払う家が「イスラエルの家」「神の家」と言えるのか、疑問が湧いてきますよね? 弟子たちも、このやりとりを聞いて、罰が悪くなったかもしれません。この女性を追い払ってほしいと願った自分たちの態度は、果たして、本当に、イスラエルの家の者としてふさわしかったのか……?

 この後、イエス様は女性に対し、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と答え、その時、娘の病気は癒やされます。弟子たちは、この言葉を、どのように受けとめたのでしょう? 「イスラエルの家からパンを奪うな」と思っていたイスラエル人にとって、彼女は最初「信仰的」には映らなかったと思います。

 叫びながらついてくる、拒絶してもついてくる、おとなしく言うことを聞いてくれない不忠実な異邦人……非イスラエル人のくせに、イスラエルに約束された恵みを受け取ろうとする厄介者……下手したら、嫌悪の対象だったでしょう。ところが、イスラエルの家の食卓へ、潜り込んでくる彼女の姿に、イエス様は「あなたの信仰は立派だ」と答えます。

 「あなたの願いどおりになるように」私もそれを望んでいる……神様も、あなたが食卓に着くことを、パンを受け取ることを願っている……今度は別の衝撃が、弟子たちを襲ったことでしょう。カナン人の女性のためにとりなすこと、恵みを分かち合うことに、思いも至らなかった自分たちの方こそ、信仰が何か分かっていなかったのかもしれない。

 アメリカでトランプ大統領が就任してから、立て続けに大統領令が出され、その中でも不法移民に対する強制送還政策が話題になっています。「教会や学校などの特定の場所で、逮捕を行わない」という長年の慣習が取り払われ、強制送還によって親と離れ離れになる子ども、知らない国へ無理やり送られてしまう子どもの不安が増しています。

 そんな中、移民政策を擁護するバンス副大統領が「キリスト教的な概念」として、「まず家族を愛し、それから隣人を愛し、それからコミュニティを愛し、それから自国の市民を愛し、その後にようやく世界の残りの人々に目を向けるべきだ」と発言したことが、キリスト教会に大きな衝撃を与えています。

 あるキリスト教団体では、隣人の中に移民や外国人を入れないで、身近な者を愛することが優先されるという主張は、むしろ、キリスト教本来の教えから離れてしまったものである……と非難し、移民に対して「慈悲、恩恵・思いやりを示し、彼らの尊厳と人間性を尊重する政策を採用するように」と求める嘆願書が作られました。

 また、教皇フランシスコは「キリスト教の愛とは、自己の利益を中心に少しずつ広げていくものではない。本当に推奨すべき『愛の秩序』とは、『善きサマリア人』のたとえ話を深く瞑想することで見出されるものだ。それは、いかなる例外もなく、すべての人に開かれた兄弟愛を築く愛である」という書簡を送っています。

 今、私たちが読んでいる聖書の話も、同じように、隣人の中から、イスラエルの中から、神の家から、外国の人や異なる民族を排除しようとする姿勢に、疑問を持つよう促しています。イエス様は、助けを求めて、パンを求めてやってきた異邦人を、どこまでも余所者として扱うことはしませんでした。

 むしろ、「あなたの信仰は立派だ」と宣言し、彼女もまた、パンをいただくのにふさわしい、イスラエルの家の者であることを示してくれました。「我々からパンを奪うな」「ここはあなたの家ではない」「余所者は帰れ」と排他的になる私たちへ「イスラエルの家の失われた羊」の中に、彼らも入っていることを教えてくれました。

 そう、救い主イエス・キリストが遣わされた「イスラエルの家」には、ティルスとシドンの地方も、フェニキアの町も、サマリアの村も入っていました。異邦人の多いそれらの地域は、もともと救い主が訪れるとは思われなかった地域でした。むしろ、滅ぼされる、罰を与えられる地域だろうと思われていた場所でした。

 しかし、イエス様はここに遣わされています。異教の民と言われる者たちの中へ、滅びの子と言われる者たちの中へ、パレスチナの中へ、不法移民の中へ、難民の中へ、キリストは遣わされています。立派な信仰を持っているとは、認めてもらえることのなかった人たちへ「あなたの信仰は立派だ」と宣言し、あなたも神の民であることを告げて来ます。

 だから、私からも言わせてください。今、排除を恐れて怖がっている子どもたち、ここから出ていけと叫ばれている、安心して暮らすことができない人たちに言わせてください。どうか、あなたの願いどおりになるように。あなたのもとへ遣わされたキリストの慈愛と恩恵が、あなたを取り巻く人々の間を満たし、あなたを救ってくださるように。あなたの子どもたちが救われるように。アーメン。


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。