他人事じゃありません【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 テサロニケの信徒への手紙一1:1〜10
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
テサロニケの信徒への手紙は、教会の信徒に対する感謝で溢れた手紙です。「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」「あなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」
誉め殺しに近い言葉ですよね。こんなに褒められる信徒って、パウロの手紙の中でも珍しいと思います。彼らは、「信仰によって働き」「愛のために労苦し」「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」者たちとして、はっきりパウロに認められ、感謝され、信頼されています。
ひどい苦しみの中でも、パウロが語る聖書の言葉を、イエス様の教えと業を、喜びをもって受け入れ、パウロにならう者、キリストにならう者となった……全ての信者の模範となった……文句のつけようのない信徒です。ここまで言われたら、逆に恐縮してしまいます。先生、そんなことありません。私が信者の模範なんて、分不相応な評価です。
素直に、まっすぐ、この言葉を喜んで受けとったとしたら、なかなかの大物だと思います。そうです、私は信者の模範です。私たちは神から選ばれ、キリストにならい、愛のために労苦して、イエス様の教えと業を伝えています。あなたの言うとおり、私たちは希望を持って忍耐しています! そう胸を張れる人……どうも、自分から遠い存在に思えます。
なるほど、テサロニケの信徒は、素晴らしい信仰を持っていたらしい。模範的な信者だったらしい。私とは違う。私たちとは異なる。これは、限られた一部の教会、一部の信徒の話であって、私に向けて、私たちに対して、語られているわけではない。むしろ、彼らに比べて、どれほど弱い信仰か、どれほど怠惰な人間か、悔い改めなきゃならないんだ。
だいたい、こういう感想を抱くんじゃないでしょうか? とても努力した英雄、困難から這い上がった者、普通は真似できない存在……こういう人がいたんだ、そんな教会があったんだ、すごいなぁ……いいなぁ……でも、どこか他人事に聞こえます。この人たちに比べて、自分は責められているような、反省を促されているような、そんな感覚。
パウロの耳に入ってきた、テサロニケの人々の評価とは、世間からの見え方とは、具体的にどんなものだったんでしょう? 彼が褒めちぎるように、町の人からも、市民からも、「あの人たちのように、テサロニケの信徒のようになりたい!」と言われていたんでしょうか? おそらく、そうではなかったでしょう。
むしろ、世間からは危険視され、愚かに見られ、彼らのようになることを妨げられていました。そもそも、テサロニケと言えば、パウロの伝道によって、みるみるうちに信徒が増え、ユダヤ人から妬まれて、町全体を巻き込むような暴動が起きたところです。フィリピで投獄され、解放された直後の宣教者が、再び捕まりかけた地域……。
「あいつらは世界中を騒がせてきた連中だ」「皇帝に刃向かう仲間たちだ」「ほっとくとこの町が乗っ取られる」そんなふうに悪魔化され、あちこちで警戒されるようになります。パウロを匿い、逃した人たちは捕まって、保証金を取られます。パウロを逃したあとも、仲間になった信者の動向は、あらゆる人に監視され、伝えられ、ニュースになります。
それこそ、マケドニア州とアカイア州一帯に響き渡るまで、人々の噂が、評価が回っていきます。テサロニケの信徒は、ローマ当局に目をつけられたパウロを信じ、今も教えを伝えているらしい……昨日も、どこどこで誰々が捕まった。あっちでは財産が没収された。何で、辛い目に遭うと分かっているのに、信じて従い続けるのか? 全く愚かな連中だ。
ある人は、家族の間でこう囁かれています。何が楽しくて、日曜日に教会へ行くんだろう? ある人は、学校の中でこう噂されています。あいつの家、クリスチャンなんだってさ。ある人は、職場でこう語られています。あの人は日曜日、なるべく仕事を入れたくないんだって……信仰者として生きていくとき、自分の姿がどう映るか、私たちは考えます。
テサロニケの人々も考えました。私が信仰を持って礼拝を続け、貧しい人と食事を分け、家を荒らされた仲間の掃除を手伝うとき、周りからは「あいつもイエスの仲間か」「あいつもパウロの弟子か」と囁かれる。わざわざ困難な道を、悪目立ちする人生を選択した、愚かな人間と思われる。たぶん、そんなに良くは見えてない。
本当は、もっと上手く、キリスト者であることを証ししたい。悪魔化されたイメージを覆したい。でも、私に奇跡は起こせないし、話もそんなに上手くない。ただ、不器用に教会へ行って、仲間を助け、思いやりをもってみんなに接していくしかない。広がっていくキリスト教徒のイメージが、少しでも良くなるように祈るしかない。
そんなとき、パウロから手紙が届きます。一緒に話を聞いた、シルワノとテモテの名前も載っています。ああ、懐かしい……いったい、どんな言葉をくれるんだろう? どんな指導をされるんだろう? あちこちで目をつけられている私たちに、どんな注意がされるんだろう?
ところが、そこに載っていたのは、感謝に溢れた言葉でした。「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです……」
自分たちが、キリスト者の評判を落としているんじゃないか? 自分たちが、マケドニア州やアカイア州の住民を警戒させているんじゃないか? 自分たちが、パウロの宣教を滞らせているんじゃないか? そんな不安と恐れを抱えながら過ごしてきた会衆に、パウロははっきり告げています。
「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と……私も知っています。「華陽教会の信徒のようになりたい」「あの人たちのようになりたい」そう思ってもらえるような、立派な信仰の持ち主だとは、自覚してない人たちへ、私からはっきり伝えます。
私は皆さんのようになりたいです。伝道師の期間を終えて、主任担任教師として初めて遣わされた岐阜の地で、皆さんに迎えてもらったことが、どんなに幸せなことだったか……初めての総会も、初めての葬儀も、初めての洗礼も、気にかけ、フォローし、助けてくださった、皆さんの労苦と忍耐を知っています。
コロナ禍で、礼拝をどうすればいいか分からなかったときも、どこから情報を集めればいいか知らなかったときも、皆さんは幼稚園のつながりから、学校の周囲から、施設の仲間から、聞いたこと、調べたことを基にして、一緒に考えてくださいました。礼拝で、祈祷会で、私になかった問いや気づきを、ポツポツと、分かち合ってくださいました。
「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」……この言葉は、他人事ではありません。間違いなく、あなたに語られた言葉です。皆さんに告げられた言葉です。
父である神と主イエス・キリストに結ばれている華陽教会の皆さんへ。恵みと平和がいつも、あなたがたにあるように。アーメン。
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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。