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好意を示してくれません【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 出エジプト記33:12〜17、ヨハネによる福音書2:1〜11

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

カナの婚礼というのは、神の子イエス・キリストが、最初に行った奇跡と言われています。水をぶどう酒に変える、しかも、世話役から「良いぶどう酒」と評されるほど、おいしいワインに変えてしまう、ワクワクするような話です。事の発端は、ガリラヤのカナで結婚式が開かれることになり、そこへイエス様が招かれたことでした。
 
どうやら、最初に招待を受けたのは、イエス様の母マリアのようです。マリアの親戚か知り合いの人が結婚することになったんでしょうか? 成人した息子も、母親と一緒に招かれるということは、近しい身内か、関わりの深い近所の人かと思うでしょう。けれどもマリアが住んでいたナザレからカナという村まで約14km、歩いて3時間くらいです。
 
日常的に交流があった人ではなさそうです。それなら親戚かと思いますが、割と重要に思われる、マリアやイエス様との続柄は、聖書のどこにも記されません。また、不思議なことに、この婚礼には、イエス様と母マリアだけでなく、イエス様の弟子たちまで呼ばれています。どうも、単なる身内として呼ばれたわけじゃなさそうです。
 
さらに、婚礼の最中、ぶどう酒が足りなくなったとき、なぜかイエス様の母マリアが、息子に向かってこう言います。「ぶどう酒がなくなりました」……変ですよね? 普通は、一緒に招かれた家族ではなく、会場の係に言うことです。さらに、マリアは花婿の召し使いたちへ「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と命じています。
 
これも変です。招待客から、急にこんなこと言われても、召し使いたちは従えません。自分たちの主人は花婿であって、その許可もなく、勝手に会場にいる人間の指示には従えません。ところが、彼らはマリアの言うことを素直に聞いて、イエス様が何か指示すると最初から、そのつもりだったかのように従います。
 
もしかしたら、マリアと召し使いたちは、最初から、ぶどう酒が足りなくなることを分かっていたのかもしれません。そもそも、イスラエルの婚礼で、ぶどう酒を切らしてしまうのは、あってはならない失態で、できる限り大量に用意しておくものでした。しかし、花婿の家には、十分ぶどう酒を用意できない事情があったのかもしれません。
 
そんなとき、ナザレから出てきたイエスという人が、洗礼者ヨハネによって「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言われたり、ヨハネの弟子たちによって「わたしたちはメシア(救い主)に出会った」と言われたりするのを耳にして、花婿も、この人なら何とかできるんじゃないか?……と思ったのかもしれません。
 
「マリアさん、あなたの息子の話を聞きました。婚礼の最中、ぶどう酒が足りなくなって私たちが困ったとき、息子さんに助けてもらえないでしょうか……?」おそらく彼女は救い主との仲介役として呼ばれ、最初から、ぶどう酒がいつ足りなくなるか、注意深く、見守っていたんでしょう。助けが必要と分かるやいなや、彼女は息子を呼びにいきます。
 
「ぶどう酒がなくなりました」……イエス様も、薄々分かっていたでしょう。自分たち家族だけでなく、自分の弟子たちまで呼ばれ、こうして、母親から呼ばれたということはここで特別な力によって助けることが期待されていると……けれども、イエス様は花婿と花嫁の親戚でもなければ、知り合いでもありません。
 
下手すれば招待されるまで、顔を合わせたことのない人間です。自分の母がそこにいたから、一緒に招かれただけの間柄です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」……母親に対して、冷たい言葉に見えますが、本当に、イエス様にとっては、かかわりのなかった家だったのかもしれません。
 
イエス様は、誰かに奇跡を起こされるとき、「何を求めているのか」「何をしてほしいのか」と相手に聞いて、自分とのやりとりを、かかわりを求めました。けれども、カナの婚礼では、自分に直接「助けてほしい」と求める人は出てきません。お母さんを通して、恐る恐る、頼みを聞いてもらおうとする、自分とやりとりのできない相手が出てきます。
 
何か、私たちみたいですよね? 自分の言葉なんかじゃ、自分の祈りなんかじゃ、神様に好意を示してもらえないんじゃないか? 教会に来たばかりで、聖書をパラっと読み始めたばかりで、祈っても、願いを言っても、聞いてもらえないんじゃないか? 私よりも牧師から、あの人から、頼んでもらった方が、聞いてもらえるんじゃないか?
 
でも、本当は、そんな寂しい話じゃないんです。イエス様の「わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉は、「関係ないからお断り」という意味ではありません。わたしとかかわりなさい……何を求めているのか、何をしてほしいのか、言わなくとも分かっているから、わたしと関係を築きなさい……という促しです。
 
最初に読んだ、出エジプト記にも、自分に対して、神様が本当に好意を示してくださるのか、半信半疑なモーセの言葉が続いていました。なぜなら、彼はこの直前に、自分の率いる民が、金の子牛の像を作ってしまい、偶像礼拝を行ったことで、最悪の展開を迎えたからです。
 
民の指導者として選ばれたのに、みんなは自分の言うことを聞かないし、一番やってはいけないことをさせてしまった。神様が自分と一緒に遣わしてくれた兄弟アロンでさえ止めてくれず、本当の神でないものを拝ませてしまった。神様は、最初から私に好意を示す気なんてなかったんじゃないか? 私の言うことなんて、聞いてくれないんじゃないか?
 
そんなモーセに対し、神様は繰り返し語ります。「わたしはあなたに好意を示す」「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」……イエス様も同じです。自分と直接関われず、母親を介して、助けを求めた人たちに、自ら好意を示します。「水がめに水をいっぱい入れなさい」……すると、水はぶどう酒に変わり、婚礼は中断することなく続きました。
 
もし、自分と神様とのかかわりがないに等しく感じるなら、自分が頼んでも、願っても拒絶されると恐れるなら、イエス様が誰のために、最初の奇跡を起こしたのか、思い出しなさい。自分とかかわりがない者を、かかわりのある者へ変えられる、自ら隣人としてやってくる、イエス様を求めなさい。この方は、あなたを通して栄光を現してくださいます。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。