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無益でむなしいもの【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テトスへの手紙3:8〜15

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 テトスへの手紙の最後には、「善い行いの勧め」と共に「避けるべきこと」が列挙されていました。「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議(論争)を避けなさい。それらは無益で、むなしいものだからです」……似たような表現が、牧会書簡のところどころに見られます。

 同じテトスへの手紙の中では、「無益な話をする者」「人を惑わす者」への批判、テモテへの手紙一の中では、「作り話や切りのない系図」「無意味な詮索」への忠告、テモテへの手紙二の中では、「俗悪な無駄話」や「愚かで無知な議論」への警告といった形で記されていました。

 実は、「律法についての論議(論争)を避けなさい」という表現は、テトスへの手紙以外にはあまり見られず、珍しい言い方ですが、律法における様々な規定や預言の言葉の解釈をめぐって、人々を振り回す者たちへの痛烈な批判が込められていたんでしょう。聖書の解釈は一歩間違えると、霊感商法や自己啓発セミナーの道具にもなってしまうため、「こうすれば正解」「これさえ守れば大丈夫」という魅惑的な偽教師が度々発生していました。

 これまでも何度か話してきたように、牧会書簡では、そのような「異なる教え」や「偽りの教え」に対抗するため、組織運営や教師の資格について、細かな注意が述べられています。テトスへの手紙の最後には、それらの締めくくりとして、改めて注意するべきこと、避けるべきことがまとめられていました。

 たとえば、「系図の詮索」というのは、「作り話や切りのない系図」という言葉で批判されていたように、旧約聖書の解釈に関係している話です。それらは、「無意味な詮索」や「無益な議論」「空論」に迷い込ませてしまうと言われているので、今でいう「陰謀論」に近かったかもしれません。

 現代でも「キリストの生まれ変わり」や「現代の使徒/預言者」を自称して、その根拠を聖書の系図や記述から、無理やりこじつけている人がいますが、初代教会でも似たようなことがあったのでしょう。キリスト教系の破壊的カルトの教祖には、度々、聖書に出てくる時代や日付、地名や名前を自分の人生に当てはめて、「私が再臨のメシアである」と主張したり、「特別な使命を持った預言者だ」と主張しているところがあります。

 また、特定の人種や民族を、聖書に出てくる民族や系統に当てはめて、自分たちを持ち上げたり、外国の人を貶めたりする人も居たでしょう。今だって、ユダヤ人を特別視したり、反対に蔑視する人たちがいるように、かつても、聖書の記述を「選民思想」の維持や強化、「排外主義」に用いてしまう人たちが居たんです。もちろん、それらは偏った教えで、健全な信仰生活からかけ離れています。

 ちなみに、「律法」というのは、広い意味で「旧約聖書全体」を指し、その中でも、「モーセ五書」と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を念頭に置かれることが多いです。狭い意味では、それらに出てくる掟を指し、有名な「十戒」は、律法の中のほんの一部です。

 律法の細かな掟を書き出すと、全部で600以上に上ります。これらを要約する教えが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟だと言われています。イエス様の生まれた時代も、この2つが最も重要な掟として考えられていました。

 ところが、「律法についての論議(論争)」の中には、「教会の教勢(信徒数)が増えないのは、神から与えられた掟を厳密に守っていないからだ」「キリストが再びこの世に訪れる世の終わりが来ないのは、私たちが掟どおりに生活できてないからだ」と極端に考え「細かな掟を字義どおり守らなければ救われない」と主張するような人もいます。

 それは、過去に限ったことでなく、現代に至るまで、何度も起こってきた運動で、「原理主義」とも言われます。キリスト教が、イスラエルから諸外国へ広がっていった初代教会の時代にも、「ユダヤ人が守ってきたのと同じように律法を守らなければ、異邦人が救われることはない」と主張してしまう人たちや、異邦人を教会の重要な役職に選ぶことをためらう人たちが多くいました。

 「○○人は、神の民イスラエルから別れてしまった敵の子孫だ」「〇○人は、聖書で批判されている民族の血が混じっている」「彼らが救われるには、一層努力しなければならないはずだ」……そんな感覚で、特定の人種、民族、出身の人たちを見てしまう人たちが居たんです。

 もしかしたら、「彼らが救われるためには、どこまで律法を守らせるべきか?」というような「愚かな議論」もあったのかもしれません。それは、信仰によって義とされる、行いによってではなく、信じることによって正しい者と受け入れられる、というパウロの教えに真っ向から反対するものでした。

 実は、今でもそういう感覚は、私たちの中に残っています。日曜日、どんな格好で教会に来るべきか? どんな理由なら礼拝を休んでいいか? 何をどこまで頑張ったら、「信仰者」として自分は胸を張れるのか? そんなふうに、自分の中でも論議・論争が続いているかもしれません。

 しかし、手紙の著者は、そのような論争に心を奪われず、救いを信じて、互いに愛し合うように勧めています。パウロの名前を冠する他の手紙と同様に、繰り返し、自分のためにとりなし、助けてくれる者たちへの感謝と、自分もあなたがたを頼りにしている、というメッセージを伝えています。

 私たちも、愚かな議論や論争に心を奪われず、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えから離れないように、もう一度立ち帰れるように、改めて、自分を見つめつつ、歩みを進めていきましょう。わたしたちの救い主、キリスト・イエスからの恵みと平和が、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。