もっと気になるキリスト教(7)【キリスト教ABC講座】
聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。
旧約聖書に関する質問
Q. ソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国ユダはなぜ分かれてしまったんですか?
A. 列王記によると、ソロモンの死後、息子のレハブアムが王として首都エルサレムで即位したとき、北の諸部族はレハブアムを王として認めず、ソロモンに反旗を翻したヤロブアムを擁立し、シケムに首都を定めました。そのため、王国は「北王国イスラエル」と「南王国ユダ」の2つに分裂します。北の諸部族がレハブアムを王として認めなかった原因は、父親のソロモンの酷政とレハブアムの愚かさにあったと言われていますが、南北の部族間の対立感情もありました。また、ヤロブアムが反乱に成功した理由には、ソロモン王国の分裂を図っていた、エジプト王シシャクの手が働いていたことも関係していたとされています。
Q. 聖書に出てくる「預言者」とは、どういう人たちですか?
A. 預言者とは「神の言葉を預かる者」という意味で、神から告げられた言葉を人々に伝える使命を負った者たちです。幻を見て未来の予言をする「先見者」や不思議な奇跡を行う「神の人」を指す場合もありますが、主な役割は、罪を犯している人々へ、神の裁きを警告し、悔い改めて、滅びを免れるよう導くことでした。また、次々と苦難が降りかかって傷ついている人たちに、慰めと励ましを語り、救いを信じて待つように希望を語る役割もありました。アモス書をはじめ、聖書に預言書として名前が出てくる人物は、預言を語るだけでなく文字に残したことから「記述預言者」と呼ばれています。特徴としては、預言活動を職業として意識せず、人から要求されてではなく、神に命じられて預言を行い、楽器などの道具も使用しなかったことが挙げられます。このように、一般にイメージされる「予言者」と、聖書における「預言者」はだいぶ違います。
Q. 預言者エリヤは、どんな活動をした人ですか?
A. エリヤは、紀元前9世紀の北王国イスラエルの預言者で、オムリ王朝に属するアハブとアハズヤの治世に活動しました。列王記によると、アハブ王が治めていた北王国では、カナン・フェニキアの自然宗教と、イスラエルの神ヤハウェへの信仰が混合し、あちこちに異教の神々を祀る神殿や祭壇が建てられました。エリヤはこれと鋭く戦って、本来信じるべき唯一の神への信仰を再び確立していった人物です。特に有名なエピソードは、「主(ヤハウェ)が神か、バアルが神か」と問いかけた、バアル預言者との対決です。また、アハブ王の不正を激しく責めた「ナボトのぶどう畑」の出来事もあります。列王記下2章によると、エリヤは死を見ずに天へ上げられ、その再来は、救い主メシアの時代が到来する始まりだと考えられました。新約聖書の時代には、エリヤは旧約預言者の代表的人物と見られています。
Q. 預言者エリシャは、どんな活動をした人ですか?
A. エリシャは、紀元前9世紀後半に、エリヤの後継者として現れた北王国イスラエルの預言者です。彼の活動は、列王記上19章と列王記下2章から13章に記されており、預言者に選ばれた「召命」のときを含めると、アハブ、アハズヤ、ヨラム、イエフ、ヨアハズ、ヨアシュの6代50年以上にわたります。エリシャは、単独で活動したエリヤと異なり、当時の預言者集団のリーダーでもありました。また、王や民に対して「バアル礼拝かヤハウェへの信仰か」という二者択一を迫るような厳しい場面もありませんでした。エリシャは、国家の政治や軍事との関わりも強く、度々王に召し出されていました。やがて、エリシャはエリヤの預言どおり、ヨラムの将軍イエフに油を注いで、新しいイスラエルの王を立て、オムリ王朝に終わりをもたらします。さらに、異教の神バアルの預言者を国内から追放し、エリヤから受け継いだ使命を果たすことになりました。
Q. 北王国イスラエルは、どのように滅んでしまったんですか?
A. 列王記や歴代誌によると、南王国ユダと分かれた北王国イスラエルは、農耕が盛んな上に、北から攻めてくる敵に備えて、フェニキアと親交を結んだため、経済的・文化的には南王国ユダよりも有利な状態に立っていました。しかし、宗教的には、異教化の危険にさらされました。また、世襲のダビデ王家に対する反発もあってか、北王国は強くカリスマ的原理を保ち、革命が相次ぎ、外交政策も安定せず、無政府状態に陥りました。やがて紀元前721年に西へ攻めてきたアッシリアによって滅亡してしまいました。
Q. 南王国ユダは、どのように滅んでしまったんですか?
A. 列王記や歴代誌によると、北王国イスラエルが滅亡してから、残された南王国ユダは、アッシリアの影響の前面に立たされ、政治的に隷属しなければならず、国内における異教の影響が増大することになりました。しかし、この時代に、ヒゼキヤ王によって行われた宗教改革は、彼の父アハズの時に移入されたアッシリア風の偶像崇拝の一掃を図ったものでした。また、紀元前621年のヨシヤ王による宗教改革は、アッシリアの衰退に伴って企てられた南王国ユダ最後の復興運動で、やがては南北を統一して、宗教連合の理念を再建しようとしたものであったと言われています。しかし、ヒゼキヤとヨシヤの志は果たされぬまま、支配権はアッシリアから新バビロニアに移り、紀元前587年に、南王国ユダもバビロニアによって滅亡しました。
Q. 「捕囚の民」とは何ですか?
A. 「捕囚」とは、民族が外国に征服され、外国の地に連れて行かれ、その支配に服する状態のことです。イスラエル人は、分裂した北王国がアッシリアに滅ぼされたときと、残された南王国がバビロニアに滅ぼされたときの二度、捕囚を経験していると言われています。特に、バビロニアが南王国ユダを滅ぼした、紀元前586年には、イスラエル人のほとんどがバビロニアに入植させられ、貧しい農夫だけが残されたと言われています。捕囚となったイスラエル人は、バビロニアで比較的自由な生活を送ることができましたが、その精神的苦悩は深く、捕囚が長引くにつれて、「神に選ばれた民であったのに、なぜ外国の異邦人に辱めを受けなければならなくなったのか」という問題と向き合うことになりました。この期間に、旧約聖書の記述の多くがまとめられたと言われています。
Q. 「ディアスポラ」(離散)の民とは何ですか?
A. ディアスポラとは、ギリシア語で「散らされた者」という意味で、パレスティナ以外の土地に離散していたユダヤ人のことです。紀元前586年にバビロニアへ入植させられたユダヤ人をはじめ、宗教上・政治上の理由からパレスティナを追放されたユダヤ人、ユダヤの地における政治的圧迫や宗教的迫害を避けるために外国へ移ったユダヤ人、外国の都市で職業に就くため出て行ったユダヤ人など、様々な背景が挙げられます。彼らは、母国を離れ、新しい環境に順応し、世代を経るごとにヘブライ語やアラム語が話せなくなっていきましたが、それぞれの地で、会堂(シナゴーグ)を建て、安息日に礼拝し、信仰を守り続けたと言われています。有名なギリシャ語の『七十人訳聖書』(セプチュアギンタ)はエジプトのアレクサンドリアでディアスポラのために作られた翻訳聖書と言われています。
新約聖書に関する質問
Q. キリストに触れるだけで、病気を癒された人がいるんですか?
A. マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、12年間出血の止まらなかった女性が、イエスの服の房に触れただけで、病を癒やされた話が出てきます。かつてのユダヤ社会では、月経中の女性に触れると汚れてしまうと考えられ、何年も出血が止まらない状態は、常に「汚れている」とみなされることを意味しました。そのため、この女性が「汚れた」状態で、黙って男性に触れたことが分かれば、「とんでもない罪を犯した」と訴えられても、おかしくありませんでした。ところが、イエスは自分に触れた女性を捜し出すと、皆の前で、彼女の行為を叱るのではなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言します。当時の価値観では、掟を破って、汚れた状態で男に触れた女性に対し、「信仰を認める」なんて考えられませんでしたが、キリストは、救いを信じて自分に触れた彼女の信仰を受けとめて、「安心していきなさい」と送り出しました。
Q. ヤイロの娘が生き返った奇跡とは、どんな話ですか?
A. 会堂長をしていたヤイロの娘が、イエスに甦らされた出来事は、出血の止まらなかった女性の癒しとセットで出てくる話です。ヤイロの娘は、イエスが弟子たちと話している途中、あるいは、出血の止まらなかった女性を探し出した後、息を引き取ってしまいます。しかし、イエスは少女のことを「死んだのではない。眠っているのだ」と言って、ヤイロの家の中へ入ります。ヤイロの家では、少女が起き上がることを期待できず、泣いている者や騒いでいる者が大勢居ました。娘のもとへ行こうとするイエスに「お嬢さんは亡くなりました」「先生を煩わすには及びません」と言って、帰そうとする人たちもいました。かつてのユダヤ社会では、死体に触れることも「汚れが移る」行為と考えられ、そんなお願いはしちゃいけないと思われていたからです。しかし、キリストは「娘に手を置いてやってください」というヤイロの願いを蔑ろにせず、少女の遺体に触れて彼女を起こし、生き返った娘を家族に帰してあげました。
Q. ラザロが生き返った奇跡とは、どんな話ですか?
A. ラザロはベタニアでイエスをもてなしたマルタとマリアの兄弟で、彼の復活は、ヨハネによる福音書11章に出てきます。マルタとマリアは、イエスを家でもてなしたり、イエスの話に聞き入ったり、イエスを神の子と信じていた様子が出てきますが、ラザロに関しては、やりとりが全く出てきません。どのような病気で亡くなったのかは分かりませんが、生前も、意思疎通ができる状態ではなかったのかもしれません。イエスはラザロが死んでから4日経って、マルタとマリアの家を訪れ、「あなたの兄弟は復活する」と言いますが、姉妹は2人とも「わたしの兄弟は復活すると信じます」と正面から答えられません。けれども、イエスは姉妹と共にラザロの墓へ訪れて、墓石を取り除かせ、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけます。すると、ラザロはその声に応えて、墓の中から出てきました。イエスの言葉は、聞こえないはずの者にも届き、答えられないはずの者をも起こし、応答させてしまいます。家族さえ、期待することのできなかった、信じることのできなかった、応答をさせてしまいます。
Q. ナインのやもめの息子が生き返った奇跡とは、どんな話ですか?
A. ルカによる福音書7:11〜17に、ナインという町で、夫を失った女性の一人息子をイエス・キリストが甦らせた話が出てきます。彼女は、息子の遺体を埋葬するため、棺が担ぎ出されたところで、イエスと弟子たちに遭遇しますが、マルタとマリアのように助けを求めたり、挨拶に来たりする様子はありません。彼女に付き添っていた大勢の人も、イエスが棺に触れるまで、立ち止まる様子がなかったので、顔見知りではなかったのだと思います。もちろん、亡くなった一人息子も、生前にイエスと会った様子や、イエスを信じた様子はありませんでした。しかし、イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、棺に入った息子に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じます。亡くなった本人も、その家族も、イエスが誰か知っているわけでも、イエスを信じたわけでもなかったのに、死んでいた息子は起き上がり、ものを言い始めました。キリストの憐れみと呼びかけは、生きている間に自分を知ることのなかったものにも、死によって隔てられた者にも、希望を持てない者にも届き、その声に応答させてしまいます。
Q. キリストは、自分が死んで復活することを何度も予告していたんですか?
A. イエスは、自分が必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて十字架につけられ、死んでから3日目に復活することを、3回にわたって弟子たちへ予告していました。しかし、弟子たちはそれを聞いて恐ろしくなり、どういう意味か、それ以上聞くことができませんでした。また、死と復活の予告を聞いた使徒ペトロは、「そんなことがあってはなりません」と拒絶して、イエスをわきへお連れして、いさめ始めたことも書かれています。弟子たちにとって、イエスの死は受け入れ難く、復活は理解し難く、3回も話されていたにもかかわらず、キリストが死んでから3日目を迎えたときも、復活を期待して、帰ってくることを信じて、戸にかけた鍵を開けておくことができませんでした。
Q. イエスが食卓についていたとき、いきなり香油をかけられたのはなぜですか?
A. イエスは十字架につけられるしばらく前、ベタニアの家で食事をしていたとき、一人の女性に頭から非常に高価な香油をかけられたことが、福音書の中に出てきます。ヨハネによる福音書では、その女性は兄弟ラザロを生き返らせてもらったマリアとなっており、頭ではなく、イエスの足に香油を塗り、自分の髪で拭ったことになっています。イエスはそれについて「わたしを葬る準備をしてくれた」「埋葬の準備をしてくれた」と言いました。実際、香油は遺体が傷まないように、腐臭がしないように、埋葬の準備に用いられるものでもありました。ただし、マリア本人が、本当に葬りの準備のために、イエスへ香油を塗ったのかは分かりません。もしかしたら、ラザロを甦らせてくれたイエスに対し、「あなたこそ神から選ばれた真の王です」という気持ちを表したくて、香油を注いだのかもしれません。そうだとすれば、本来、神に選ばれた者へ油を注ぎ、王に任命する役目は、預言者が担うものなので、周りにいた男たちは「ふさわしくない者が油を注いだ」と感じたかもしれません。しかし、イエスは彼女の油注ぎを受け入れて、感謝を表し、後の時代にも、この出来事は世界中で語り継がれることになるだろうと言いました。
Q. キリストは、エルサレムで盛大な歓迎を受けたのに、十字架につけられたんですか?
A. イエスは、十字架につけられる一週間前、エルサレムに入城した際、「ダビデの子にホサナ!」と群衆から盛大な歓迎を受けました。「ホサナ」というのは「主(神)よ、お救いください」という意味が転じて、「ばんざい!」という意味になった歓呼の叫びです。エルサレムに来た人々は、自分たちを支配するローマ帝国を打ち滅ぼす、軍事的指導者となってくれることを期待して、イエスを新しい王にしようとしていました。しかし、イエスは武力を用いて敵を滅ぼす軍事的な王ではなく、ユダヤ人も、異邦人も、敵意を取り去って、神の国に迎えられるよう、平和を導く王として、この世に来られた救い主でした。そのため、人々は、自分たちの期待に反し、イエスが異邦人にも救いを語っていると分かると、祭司長や律法学者に扇動され、あっさり「十字架につけろ」「十字架につけろ」と訴えるようになりました。
Q. キリストが神殿で暴れて、商人たちを追い出したというのは本当ですか?
A. 本当です。イエスが神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人たちを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書全てに出てきます。両替人や鳩を売る者は、神殿で犠牲をささげたり、献金をささげたりするために、必要不可欠な存在でしたが、境内の奥まで入ることの許されない子どもや女性、異邦人や障がい者が祈る場所を塞いでしまい、彼らを蔑ろにしている現実もありました。そのため、イエスは「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と激しく非難し、祈りの場から追いやられていた、目の見えない人や足の不自由な人たちが、そばに寄って来られるようにされました。
Q. イエスは、やもめが全財産をささげたように、全てをささげるよう教えたんですか?
A. マルコによる福音書12章とルカによる福音書21章には、夫に先立たれた貧しいやもめが、彼女の全財産をささげた話が出てきます。それは、イエスが賽銭箱の向かいに座って、群衆が金を入れる様子を見ておられたときのことです。大勢の金持ちが、賽銭箱にたくさん金を入れる中、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚、現代の価値だと100円くらいを入れたのを見て、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」「持っている生活費を全部入れたからである」とイエスが言ったことが書かれています。もしこれを、貧しくても全財産をささげるような姿勢が誉められているのだとすれば、生活が破綻することも厭わないで、献金することが求められているように感じるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、貧しいやもめに対する関心です。多くの金持ちは、やもめがどれくらい献金するかなんて、気にも留めていなかったかもしれません。しかし、イエスによって、彼女がレプトン銅貨2枚をささげ、全財産がなくなったことを告げられた今、当然、人々の関心は彼女の生活に集まります。「持っている生活費を全部入れたってことは、もう食べ物を買えないの?」「寝るところはありますか?」「着るものに困っていませんか?」……彼女の生活を案じて、その回復を求める人たちが、周りに集まり始めたことでしょう。この話は、神の求める献げ物は、隣人に関心を持ち、支え合う共同体であることを思い出させる話でもあるんです。
キリスト教全般に関する質問
Q. キリスト教の聖典は、どのようにできていったんですか?
A. 旧約聖書39巻は、長い期間を経てまとめられました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5巻は「律法(トーラー)」と呼ばれ、586年の南王国滅亡後、バビロニアに捕虜として連れて行かれたユダヤ人によって編集され、紀元前400年頃のエズラ・ネヘミヤの時代に正典として公認されたと考えられています。
ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の4巻は「前預言書」と呼ばれ、先の5巻と同じく、捕囚時代にバビロニアで編集されたと思われます。その次に、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、および、ホセア書からマラキ書まで12小預言書の4巻が作られ、「後預言書」と呼ばれました。これらを合わせた「預言書(ネイビーム)」が正典として公認されたのは、およそ紀元前3世紀末〜紀元前2世紀初頭と考えられています。
詩篇、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、コヘレトの言葉、エステル記、ダニエル記、エズラ・ネヘミヤ記、歴代誌の11巻は、「律法」および「預言書」から漏れたもの、また、その後に書かれたものを集めたと言われ、「諸書(ケトゥビーム)」と呼ばれています。これらが正典として公認されたのは、紀元90年頃にパレスチナのヤムニアで開かれたラビの会議と言われています。
新約聖書の27巻は、50年〜140年頃、遅くとも150年頃までに書かれたと言われています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書と宣教者パウロの名を冠する13の書簡は、直接イエスを知り、その教訓を伝えうる使徒たちが減るにつれ、信仰の糧と教会生活の指針として礼拝で読まれるようになり、130年頃に正典として承認されました。また、170年〜220年の間に、旧約聖書と同一の地位に置かれるに至ったと言われています。
ヘブライ人への手紙、ユダの手紙、ペトロの手紙ニ、ヨハネの手紙一とニ、ヨハネの黙示録に関しては、その後も議論が続きますが、397年のカルタゴ会議で、正典として公認されました。現代の新約聖書の文書全てが正典として決定したのは、1546年のトリエント公会議です。
Q. 現代でも、キリスト教会で油を塗る儀式というのはあるんですか?
A. 油は、聖書の中で「神の祝福」や「聖別」(人・物・場所・時間などを神にささげるため区別すること)の象徴として用いられ、神から王や預言者として選ばれた者に注がれました。そのため、現代でも一部の教会で、キリスト教の入信式である「洗礼式」や「堅信礼」などの信仰告白式、聖職者の任命式である「叙階」、会堂建築した教会の「献堂式」などで、油を塗ったり、注いだりすることがあります。また、新約聖書では、キリストの弟子たちが病人のために油を塗って、癒した話が出てくるため、カトリックでは秘跡の一部として「病者の塗油」が行われています。他にも、キリストの受けた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節の始まりに、棕櫚の葉を燃やした灰を混ぜたオリーブ油を額に塗り、悔い改めを表す礼拝が行われることもあります。
Q. キリスト教の葬儀は、どのように行われるんですか?
A. キリスト教の葬儀は、死者の魂を鎮めるものではありません。死が終わりではなく、神によって永遠の命と復活の恵みにあずかることを確認し、感謝と賛美をささげ、残された人に慰めと希望を語る礼拝として行われます。教会に葬儀を依頼する場合は、まず牧師へ連絡し、牧師から教会がいつも依頼している葬儀社に連絡して、遺体を自宅か教会、もしくは葬儀社へ運び、納棺式を行います。その後、ご遺族と打ち合わせを行います。一般的に「通夜」と呼ばれるものを教会では「前夜式」と呼び、主として近親者が集まり、故人の想い出や信仰を分かち合うことに重点を置いています。盛花・生花を送ってくださる方がある場合には、教会の慣例により、式のときには贈り主の名札を取り外します。また、花輪・供物は教会では受け付けません。「弔辞」も、死者への呼びかけとしてではなく、召天者の信仰の思い出、遺族への慰めの言葉などを述べてもらうようにしています。献花は、本来キリスト教のものではありませんが、参列者一人ひとりの見送りの気持ちを表すものとして行います。花は召天者に手向けるのではなく、遺影を飾るという趣旨で行います。キリスト教の場合、「香典」を渡す場合は「お花料」として送ります。