見出し画像

同じ思いを抱けない【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 フィリピの信徒への手紙4:1〜7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「主において同じ思いを抱きなさい」……エボディアとシンティケ、2人の女性の名を挙げて、パウロが手紙で告げた言葉は、いくらか私たちをドキッとさせます。名指しで、誰かと誰かが言及される。たとえば、知っている人で言い換えてみましょう。「わたしは、西川幸作に勧め、また柳本伸良に勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」
 
手紙を読んだ岐阜地区の皆さんは、まず、こう思うでしょう。ああ、この2人の間に何かあったな、と。何かで2人は衝突し、対立し、一致することができないようだ……と。一番びっくりするのは、名指しで手紙に記された、私と西川先生です。えっ、みんなの前で、私とこの人のことを言っちゃうんですか? そんなの公開処刑ですよ……。
 
実際、名指しで手紙に記されたエボディアとシンティケはびっくりしたでしょう。教会の中で回覧される手紙に、私たちの名前が載っている。いったいこのあと、何を言われるのか? 何を暴露されるのか? もう胸はドキドキで、顔も真っ赤です。手紙を読み上げて聞いている、教会の人たちもザワザワします。
 
あるいは、意外と落ち着いていたかもしれません。半笑いで聞いていたかもしれません。2人は有名人でした。パウロと一緒に伝道し、イエス様の教えと業を語るため、様々な困難を乗り越えて、フィリピの教会を、ヨーロッパで最初にできた教会を、支えてきた2人でした。戦場を駆け抜けてきた戦友のような、たくましい女性たちです。
 
けれども、いつの頃からか2人は対立し、その噂は、獄中にいるパウロの耳にまで入ってきました。それだけ、2人が一致できない状況は知れ渡っていたということです。もとから、喧嘩も多かったのかもしれません。12弟子もよく喧嘩しましたし、フィリピの人たちも「ああ、ついに2人の喧嘩に触れちゃうか」くらいの反応だったかもしれません。
 
しかし、パウロは2人の名前を挙げることで、笑いを取るわけでも、公開処刑するわけでもなく、真摯に、切実に、お願いします。「あの2人の話」「あの2人の問題」と思って聞いていた人たちを容赦なく巻き込みます。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」
 
「協力者」という言葉は、「同じ軛(くびき)につながれた者同士」「同じ荷物を運んでいる者同士」という意味で、信仰生活を支え合う相手のことを指しています。つまり、同じ教会にいる「あなた」に言っています。「この二人の婦人を支えてあげてください」「私は無関係ですと言わないで、あなたも二人を支えてください」
 
厄介な要求です。そんな……私は別に牧師じゃないし、役員でもないし、一介の信徒に過ぎません。一致できない二人のことを、どう支えたらいいか分かりません。どっちが正しくて、どっちが間違っているかも分かりません。仲裁なんて、とてもできそうにありません。とりなす方法が分かりません。
 
当たり前です。誰かと誰かの言い分を聞いて、何が正しく、何が間違っているか裁くことも、誰かと誰かの間に入って、仲直りさせることも、実はほとんど不可能です。どっちかに味方して、どっちかの敵になり、あるいは、どっちの味方にもなれないか、どっちとも距離を置きたくなるのが普通です。
 
実は、パウロも2人の騒動について、具体的なことは触れません。エボディアがどんなことをして、シンティケがどんな反応をしたか? シンティケがどんな主張をして、エボディアがどんな反論をしたか? 「問題はこれだ」と示しません。「お互いを許せ」とも言いません。「意見を合わせろ」とも言いません。ただ、こうお願いします。
 
「主において同じ思いを抱きなさい」……主において、神において、同じ思いを抱きなさい。それは、2人が持っているそれぞれの意見を一致させろということではありません。人間の意思や意見を同じにしろと言っているのではありません。初めに神様が抱かせてくれた思い、もともと何によって一致していたかを、思い出しなさいということです。
 
2人は神様を信じています。パウロから聞いたイエス様の教えと業を、みんなで分かち合いたいと願っています。それは、2人の意思からではなく、神様から、主によって起こされた思いです。伝道のやり方や、組織のあり方について、違う意見にはなるけれど、この人も私と同じく、神の恵みを、みんなで分かち合うために出発している。
 
だから、パウロは何を目標としていたか、何のために走ってきたか、直前の文章で思い出させます。私たちは、キリスト・イエスに捕らえられて走ってきた。イエス様が再び来るとき、共に復活させられ、神の国へ迎えられるように、教えを伝え、走ってきた。この人も、あの人も、一緒に神の国へ迎えられるよう、ずっとみんなで走ってきた。
 
パウロは、エボディアとシンティケについても、はっきり言います。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」……仲間なんです。私と一緒に、あなたたちのために、戦ってくれた仲間なんです。対立している二人から離れないで、二人を支えてあげてください。
 
もしかしたら、フィリピの信徒たちは、二人のことを避けるようになっていたのかもしれません。下手に声をかけたら、どっちの味方をさせられるか、分かったもんじゃない。教会を厄介な争いに巻き込むくらいなら、早く出ていってくれないか? いっそ、どっちか休んでくれないか? そんな態度を取りかけた人も、いるかもしれません。
 
しかし、パウロは二人を愛し、信頼し、期待して言います。「主において同じ思いを抱きなさい」「この二人の婦人を支えてあげてください」……どうか、離れないでください。二人へ声をかけてください。一緒に教会で過ごしてください。あなたが隣人でいてください。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」
 
そう、すぐ近くにおられます。気の利いた言葉が出てこなくても、ただ、挨拶するしかできなくても、相手の言葉に、どう反応したらいいか分からなくても、あなた一人がそばにいるのではありません。救い主イエス・キリストが、あなたたちのそばにおられます。あなたがたの間におられます。
 
岐阜地区でもそうです。自分の教会の中で、あるいは他の教会との間で、一致できないことがあります。衝突し、対立し、周りもどうしたらいいか分からなくなります。気がついたら、そこには触れないように、名前も出さないように、離れて過ごそうとしてしまいます。しかし、神様は、この人と私との間におられ、扉を叩くのを待っています。
 
同じ思いを抱けない……そんな場面に、私たちは日常的に遭遇します。しかし、それは人の思いであって、神様によって抱かされた、イエス様と出会って湧き上がった、最初の思い、救いに導かれる信仰は、同じです。この人と、私との間に、イエス・キリストが立っている。私たちの間に、救い主が居てくださる。
 
その事実を胸に抱いて、求めているものを、神に打ち明けていきましょう。あの人と、この人と、隣人(となりびと)になりましょう。パウロも手紙で伝えています。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」……アーメン。

*今週は「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇のため、このメッセージの動画配信はありません。華陽教会のYouTubeでは、多治見から来られる福井智伝道師のメッセージを配信しています。

https://youtube.com/live/o5KaF2Tci5A?feature=share

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。