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もっと気になるキリスト教(4)【キリスト教ABC講座】

聖書の内容やキリスト教に関する知識をQ&A方式でザックリ説明している講座です。

 

旧約聖書に関する質問

Q. イスラエル人が「金の子牛」の像を作って拝んだ事件とは、どういう話ですか?

A. モーセが神の掟「律法」を授けられるため、山に登っている間、待ちきれなくなったイスラエル人が、モーセの兄アロンに頼んで、金の子牛の像を作り、それを自分たちの神として拝んでしまった事件です。イスラエルの民は、エジプトから脱出するとき、自分たちのために見えない神が軍勢と戦い、雲の柱や火の柱で道を示し、水やパンを与えてくれるのを見てきたのに、偽物の神を作って礼拝してしまいます。最低最悪な裏切りを行い、彼らは全員滅ぼされるはずでしたが、モーセのとりなしを受け入れて、神はその後も、イスラエル人と共にいることを約束します。そして、律法が刻まれた石板をもう一度授け直しました。

 

Q. エジプトを脱出したイスラエル人は、約束の地に入るまで40年もかかったんですか?

A. イスラエル人は、エジプトを脱出した後、神から約束された土地を目指して旅を続けますが、その間、何度も「エジプトにいた方がマシだった」「エジプトへ引き返そう」と言い出します。敵が追いかけてきたときも、水がなくなったときも、食べ物に困ったときも、助けを求めれば、神が助けてくださいましたが、人々は繰り返し、不平不満をぶつけます。さらに、ようやく約束の地カナンにたどり着いたときも、巨大で強そうな先住民を見て、「あの民に向かって上っていくのは不可能だ」「エジプトに引き返そう」と言って、「主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」と言ったヨシュアやカレブを石で打ち殺そうとします。そのため、神はこの2人を除く20歳以上の者たちが、荒れ野で生涯を終えるまで、カナンの土地へ入れないようにし、イスラエルの民は40年間、荒れ野をさまようことになりました。

 

Q. モーセは約束の地カナンに入ることができなかったんですか?

A. 申命記34章には、モーセが死ぬ前に、ピスガの山頂で、神が約束した土地すべてを見渡せるようにされたことが書かれています。しかし、モーセがその土地に渡っていくことはできませんでした。彼は神に命じられて、モアブの地に留まり、そこで死ぬことになります。モーセが約束の地に入れなかった理由は、民と一緒になって、神に不満を述べたことや、彼自身も、何度か神に背いていることなどが挙げられて、「罰」のように受け取られることが多いです。しかし、彼は死ぬ直前の120歳まで、目もかすまず、活力も失せていませんでした。また、「だれも彼が葬られた場所を知らない」という記述は、他ならぬ神ご自身が、彼を葬ってくださったようにも見えてきます。単なる「罰」というより、その地に葬られることで、約束の地に入れなかった人々とも、神が共におられることを表しているとも受け取れます。

 

Q. 神が定めた「律法」を要約すると、どんな教えになりますか?

A. 新約聖書のマタイによる福音書22章34節〜40節に、律法の専門家が、最も重要な掟は何か尋ねるシーンが出てきます。そこで、イエスの答えた2つの掟が、律法全体を要約する教えと言われています。一つ目が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」で、二つ目が「隣人を自分のように愛しなさい」です。実は、律法の最初に出てくる十戒も、前半を「神への愛」、後半を「人への愛」として捉えることができます。この2つは、どちらが優先されるというものではなく、一体であり「同じように重要である」と言われています。

 

Q. 「安息日」とは何ですか?

A. 安息日とは、神が天地創造の業を終え、7日目に休んだことを記念して、聖なる日として定められている日のことです。この日は、人々も仕事を休むことが求められています。もともと、安息日は週の終わりの土曜日でしたが、キリスト教では、イエス・キリストが週の初めの日曜日に復活したことを記念して、日曜日を安息日として、神を礼拝するようになりました。そのため、ユダヤ教では土曜日を安息日として家庭やシナゴーグ(会堂)で礼拝を行い、キリスト教では日曜日を安息日として教会で礼拝を行っています。

 

Q. 聖書に出てくる「清いもの」と「汚れたもの」とは、どういう状態ですか?

A. 聖書における「清いもの」と「汚れたもの」は、衛生的な観念ではなく、祭儀的な観念です。ひと言で表すなら、共同体における異質なものを持ち込まないための規定で、神を礼拝するための人・場所・物を整えることが意識されています。生き物についての「清いもの」と「清くないもの」は、「神への献げ物にできるもの」と「できないもの」を表しており、その生き物の良し悪しを指しているのではありません。また、人間についての「清い」「清くない」は、「その状態で礼拝できる」か「できない」かを示すもので、「清くない」状態になっても「清い」状態に回復されれば、再び祭儀へ参加できるよう定められています。たとえば、感染によって混乱をもたらす病気や、異教を持ち込む人々との接触を避けることなどが定められています。そのため、イスラエルから見た異邦人(外国の人)、病人、障がい者などを排除する規定が出てきますが、これらの人々と礼拝する場が整えられる以上、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない(使徒言行録10:15)」と言われているように、排除する理由はありません。

 

Q. 律法に書かれていることを守らなければ、神に罰されてしまいますか?

A. 聖書には、神の掟を守らないで、裁きを受けて亡くなったり、病気になったり、災いに遭った人たちがたくさん出てきます。しかし、律法を守らなかった人が、必ず酷い目に遭っているわけではなく、警告や憐れみ、とりなしを受けることの方が多いです。また、神の裁きは、単に懲らしめるためのものではなく、悪い状態から正しい状態へ回復するためのプロセスとして描かれます。そのため、裁きを受けた後も、神がその人と共にいて、回復のために一緒に歩む姿も出てきます。「神の裁きを受ける」ということは「=神に見捨てられる」ということではありません。「神の救いを受けられるよう回復に至る道を歩まされる」ということです。また、事故や事件や病気の原因が、神の裁きかどうかは誰にも分かりません。安易に、「悪いことが起きた」という事象を、「掟を守らなかったから」という評価につなげることは、神の意志を勝手に代弁することになりかねないので、注意が必要です。

 

Q. 聖書に書かれている掟は、全て正しいんですか?

A. 聖書には、現代的な視点で見ると、差別的な表現や、非倫理的な記述が出てきます。神が人々に「守りなさい」と命じた掟の中にも、実践したら、人権を蔑ろにしかねない、危うい掟も出てきます。それらを全て、字義通り行うことが正しいとは言えません。神の子イエス・キリストも、安息日に仕事をしてはならないという掟を破り、異邦人と接触してはならないという掟を破り、病人に触れてはならないという掟を破り、律法学者や祭司長から非難されました。しかし、それらの行為は、神の掟を蔑ろにする行為ではなく、「律法を完成する」ための行為と言われています。その掟をなぜ守るのか? どう守るのか? 他にどんな選択があるか? 考えることを放棄して、ただ書かれているとおり実践しても、神の意志を尊重することにはならないのです。

 

Q. モーセの死後、後継者のヨシュアはどうしたんですか?

A. モーセが亡くなった後、後継者として指導者に選ばれたヨシュアは、神から「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と励まされ、約束の地カナンへ人々を連れていきます。カナンには、エリコという城壁に囲まれた町があり、巨大で力の強い先住民もいましたが、神を信じた遊女ラハブの手引きによって、最初の勝利を収めます。その後も、先住民との戦いが続きますが、イスラエル人を率いたヨシュアは、次々とその土地を占領していくことになりました。ヨシュア記では、このように、イスラエル人が順調に征服を進めたように書かれていますが、完全に征服できたわけではなく、士師記では、多くの土地が未征服で、敵に財産を強奪されることも多かったことが記されています。

 

Q. イスラエル人は、約束の地で暮らすために侵略戦争をしたんですか?

A. エジプトを脱出したイスラエル人が、カナンの地を征服していった出来事は、ある種の侵略戦争です。カナンの地には、異教の神々を拝む異邦人もいれば、イスラエル人の親戚に当たる民族もいました。イスラエル人は本当の神に従う民で、カナンの先住民は神に背いている民だから、イスラエル人が先住民を征服するのは正しいんだ……と言うこともできません。なぜなら、イスラエル人も金の子牛の像を作って、偶像を拝んだ民であり、何度も神に背いてきたにもかかわらず、神が一緒に居てくれた民だからです。滅ぼされる理由がいくらでもあるのは、どの民も同じでした。イスラエルと先住民の戦闘を描く士師記では、いつ立場が入れ替わってもおかしくない文学的な表現が各所に見られます。本来は、戦闘による勢力拡大ではなく、共に生きていくために、相手をとりなすことこそ、求められていたのではないかと思わされます。

 

新約聖書に関する質問

Q. 「ぶどう園の農夫のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「ぶどう園の農夫のたとえ」は、神とイエスと人々の関係を表すたとえです。ある家の主人がぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出た後、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ遣わします。しかし、農夫たちは遣わされた僕を捕まえ、袋叩きにしたり、石で打ち殺したりしてしまいます。そこで、主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送りますが、農夫たちは彼を殺して、相続財産を自分たちのものにしようと言います。普通なら、主人が帰ってきたとき、農夫たちは殺されて他の農夫たちが雇われることになるだろう……という話です。登場人物はそれぞれ、ぶどう園の主人が「神」を、送り出された僕たちが「預言者」を、最後に殺される息子が「神の子イエス・キリスト」を指しています。こうして、イエスはたとえの中で、自分が十字架にかけられて殺されることを予告し、預言者や自分を信じるように促しました。

 

Q. 「蒔かれた種のたとえ」とはどんな話ですか?

A. 「蒔かれた種のたとえ」は、イエスが教えたたとえ話の一つです。ある人が種蒔きに出ていくと、蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいます。他の種は石だらけの所に落ち、根を張ることができないで、枯れてしまいます。他の種は茨の中に落ち、茨が覆い塞いだので、実を結べません。しかし、他の種は良い土地に落ち、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった……という話です。「種を蒔く人」は「神の言葉(御言葉)を蒔く人」で、「種が蒔かれる場所」は「神の言葉を受け取る人」を指しています。また、種蒔く人に「蒔かれる種」が「神の言葉を伝えるために遣わされる人」を指していると捉えることもできます。

 

Q. キリストの語った「たとえ話」に「正しい解釈の仕方」はあるんですか?

A. イエスの語ったたとえ話の説明はほとんどなく、1つか2つしか出てきません。また、たとえ話の説明として語られている内容も、複数の捉え方ができ、「一つの決まった解釈」をするよう求められているわけではないことが分かります。キリストのたとえ話は、一人一人の背景や状況に応じて、受け取り方が変わってくるため、現代に至るまで、様々な証し(聖書の言葉から受け取ったメッセージ)が共有されています。

 

Q. キリストの教えた「最も重要な掟と新しい掟」とは何ですか?

A. イエス・キリストは、最も重要な掟は何か問われた際、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを答えました。また、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」という言葉を送りました。「神の掟を守る」「聖書の教えを守る」と言ったときには、単に、言葉で書かれてあることを、そのとおりのことを行うのが正しいのではなく、これらの「最も重要な教え」「新しい掟」に照らして、何をどう選択するか、何をどう実践するか、向き合うことが求められます。

 

Q. 金持ちで嫌われていたザアカイは、イエスと出会って変わったんですか?

A. ルカによる福音書19章には、徴税人の頭で、金持ちだったザアカイの家に、イエスが泊まりにきたエピソードが記されています。徴税人は、ローマ帝国のため、人々から税金を徴収する権利を買った人たちで、余分に徴収したお金は自分の懐に入れることができました。そのため、同胞のイスラエル人からはローマの手先として嫌われていました。ザアカイは、イエスがどんな人か見ようとしますが、背が低く、群衆に遮られて見えなかったため、いちじく桑の木に登って、何とか見ようと試みました。大の大人が木に登って、しかも嫌われ者の徴税人が見つめてくるわけですから、普通は声をかけたくありません。しかし、イエスは初対面の彼に名前を呼んで「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ってきます。ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えますが、これを見た人たちから「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言われてしまいました。すると、ザアカイは立ち上がって、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と宣言します。実際に、彼がそのとおりにしたのかは分かりませんが、ザアカイが自分のためではなく、自分を訪れたキリストのためにこう言ったことは、間違いなく、新しい生き方の始まりだったでしょう。

 

Q. イエスをもてなしたマルタとマリアは、どんな姉妹だったんですか?

A. マルタとマリアは、ある村でイエスを迎え、もてなした姉妹です。姉のマルタはイエスをもてなそうとせわしく働いていましたが、妹のマリアはイエスの足もとに座って、その話に聞き入っていました。マルタはマリアに腹を立て、イエスに「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と頼みますが、イエスはこう言います。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」実は、マルタとマリアには他に兄弟ラザロがおり、病気に伏せていました。このラザロは、後に、死んでから4日目にイエスが甦らせた人物です。もしかしたら、2人がイエスを迎えてもてなしたのは、お兄さんのことを聞いてもらうためだったのかもしれません。しかし、マリアはどうしたら兄を助けてもらえるか悩み、イエスをもてなすことに頭がいっぱいになっていました。けれども、イエスはマルタに対し、「あなたもマリアのように、最初からわたしを頼っていいんだよ。悩んでいることを聞いていいんだよ」と促したかったのかもしれません。

 

Q. イエスに従った女性たちには、他にどういう人がいたんですか?

A. ルカによる福音書8章には、イエスに従った女性たちの中に、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、マグダラの女と呼ばれるマリアや、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの女性たちも一緒だったことが記されています。当時も今も、良い目で見られることの少ない娼婦や遊女をしていた女性、また、ローマ帝国の傀儡として領主をしていた人の妻など、一緒にいたら良くない噂を立てられそうな人たちが、積極的に奉仕者として出てきます。教会は、「清い人」「聖らかな人が集まる場所」というイメージをもたれやすいですが、むしろ、外から良い目で見られない人たちも、ここで一緒に用いられる場所なんです。

 

Q. 旧約の「父なる神」と新約の「神の子イエス」は、全くタイプが違いますか?

A. よく、旧約の神は「裁きの神」、新約の神は「愛の神」と言われますが、実は、旧約にも、忍耐強く、憐れみ深い神の姿が繰り返し出てきますし、新約にも、手厳しく、過激に聞こえるイエスの言葉が出てきます。旧約と新約で、神の態度が分かれているというよりも、「よく読まれる箇所」「よく取り上げられる箇所」の違いです。神の裁きは、悪い状態から回復し、良い状態へ至るためのプロセスであり、愛の反対ではありません。ぜひ、一部のシーンだけでなく、聖書全体をゆっくり丁寧に、一緒に読んでいけたら幸いです。

 

キリスト教全般に関する質問

Q. 献金には、金額の定めやルールがあるんですか?

A. 献金は、神の恵みに対する感謝の応答で、強制ではなく、金額に定めもありません。旧約聖書には繰り返し、「収穫量の10分の1」をささげなさいと命じる箇所が出てくるため、それを目安に、年間で「収入の10分の1」くらいをささげる人もいます。しかし、献げ物は、各々の収入や経済的な事情に応じて、自ら決めるべきもので、一様に「10分の1をささげなさい」と強制されるものではありません。また、どの時代、どの地域でも、「収入の10分の1」が目安として支持されるわけでもなく、日本のカトリックの教会では、「月の収入の1〜3パーセント」を目安にしているところが多いです。新約聖書のコリントの信徒への手紙二9章7節には「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」とも出てきます。毎週の礼拝献金で、どうしても目安が欲しい方は、「2人で飲み物やお菓子を分けられるくらい」あるいは「2人でご飯を分けられるくらい」の気持ちで考えていただけたらいいと思います。

 

Q. 聖書に出てくる数字には、特別な意味があるんですか?

A. 聖書の中で、よく出てくる数字には、象徴的な意味を与えられているものもあります。たとえば、繰り返し出てくる「3」「7」「12」などの数字は、「欠けのないこと」「完全であること」「たくさんであること」などを象徴する「完全数」と言われています(聖書学における「完全数」と数学における「完全数」とは異なります)。また、「40」は「苦難や困難などを耐え忍ぶ期間」によく用いられる数字です。その他に、「ゲマトリア」と言って、ギリシャ語やヘブライ語のアルファベットに、それぞれ数値を割り当てて、名前や単語などを数値で表す表現も出てきます。しかし、聖書に出てくる数字に対し、何でもかんでも「隠れた特別な意味がある」と解釈するのは乱暴で、めちゃくちゃな結びつけ方をすれば、何でも言えてしまいます。「何が」「何を」たとえているか、十分な根拠がないまま、安易に結び付けられ、センセーショナルな主張をされてしまうことも多いので、注意が必要です。


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