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無意味な詮索【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙一1:1〜11

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 華陽教会では、今年度「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、より多くの人にこの教会を知ってもらい、地域の人が立ち寄りやすい場所になることを目指しています。その一環として、聖書研究祈祷会でも、「牧会書簡」と呼ばれる手紙を読みながら、華陽教会の牧会について、見直していきたいと思っています。

 「牧会」というのは「プロテスタント教会で、牧師が信徒を導くこと」を指していますが、もう少し広い意味でいうと、「牧師と信徒、信徒と信徒が共同して、互いを支え、みんなを導くこと」を指しています。それは、群れを導く羊飼いが、先頭に立つだけでなく、群れからはぐれて孤立しないよう、様々な配慮をするのと似ています。

 怪我を負ったり、体調を崩したり、獣に狙われている羊はないか? お腹を減らし、迷子になって、倒れかけている羊はないか? あるいは、羊飼いのふりをして、羊を攫いに来た野盗たちに、騙されかけている羊はないか? そういうことに配慮して、群れ全体を支えることを「牧会」と言います。

 そして、地域に建てられた教会は、その地域全体の「牧会者」でもあります。怪我を負い、悩みを抱え、途方に暮れている羊たちが、「あそこに助けを求めよう」と身を寄せられる羊飼い……羊たちが迷わないよう、今どこにいるか教えてくれる牧会者……そのようにこの教会も、近づき難い場所ではなく、安心して来られる場所になりたいと願っています。

 実は、こういった牧会について、詳しく言及しているのが、これから読んでいく「牧会書簡」です。テモテへの手紙一とテモテへの手紙二、そしてテトスへの手紙がそう呼ばれています。この3つでは、教会の組織や信徒の導き方について、大きな関心が払われており、宣教者パウロから、各地へ派遣された教会指導者への手紙という形を取っています。

 ただし、これらはパウロの死後、2世紀ごろに書かれたと考えられており、パウロの弟子たちが、パウロから聞いたこと、教えられたことを消化して、教会で起きている様々な問題に対処するため、彼の名を借りて記したものと言われています。おそらく、手紙を受け取った人たちも、パウロ本人が直接書いたものではないと分かっていたでしょう。

 当時の社会では、優れた先人の弟子たちが、その名を借りて文書を執筆することは珍しいことではなく、その先人に敬意を表する行為でもありました。かなり乱暴なたとえですが、優れた作品に対して、リスペクトを持った作家たちが、二次創作を残していくのを考えたら、分かりやすいかもしれません。

 そして、テモテへの手紙は、パウロから、パウロの協力者であったテモテに宛てた手紙として、冒頭に挨拶が出てきます。テモテは使徒言行録16章に出てきたパウロの弟子でユダヤ人の母親とギリシア人の父親から生まれたリストラ出身の人でした。使徒言行録によれば、異邦人の間では、評判の良い人だったようです。

 ただし、その地方に住むユダヤ人からは、父親が異邦人のギリシア人であったことから厳しい目に晒されているようでした。「異邦人に割礼(男性の包皮を切り取って、神の民に加えられたことを表す儀式)を施す必要はありません」と強く訴えていたあのパウロが、テモテを連れていくために、みんなの前で、割礼を受けさせる決断をしたほどです。

 確かに、ギリシア人と言えば、私たちでも「ギリシャ神話」がパッと頭に浮かぶようにテモテの血筋はユダヤ人にとって「異教の人」というイメージが、なかなか拭えないものだったでしょう。少し過激な言い方をすると、本当の神ではない「作り話」を信じている外国人から生まれた者……という印象を持たれたことになります。

 ところが、そんなイメージをもたれる青年が、エフェソの教会で「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」指導する者として選ばれます。日本語の古文を、アメリカ人の先生が教えに来るような、教えられる側からすると、「この人が先生なんだ……」と驚くような人物が派遣されるわけです。

 さて、テモテへの手紙では、挨拶に続いて冒頭から「異なる教えについての警告」が語られていました。偽りの教えを戒めるために、どのような指導者が選ばれ、指導者はどのような責任を負うべきか、細かく述べられていきます。ただし、肝心の「偽りの教え」「異なる教え」がどのようなものかは、あまり具体的に語られません。

 大きなヒントと思われる「作り話や切りのない系図」という言葉は、「神話や切りのない系図」とも訳せるため、神々の系図が延々と伝えられる、ギリシャ神話そのものをイメージするかもしれません。しかし、ここで言う「作り話」や「系図」は、ユダヤ教のあり方を念頭においたものと思われるので、旧約聖書の解釈に関係している可能性が高いです。

 これらは「無意味な詮索」や「無益な議論」「空論」に迷い込ませてしまうと言われているので、今でいう「陰謀論」に近かったかもしれません。現代でも「キリストの生まれ変わり」や「現代の使徒/預言者」を自称して、その正当性を聖書の系図や記述から、無理やりこじつけている人がいますが、初代教会でも似たようなことがあったのでしょう。

 実は、聖書というのは、少しコツを掴めば、旧約からでも、新約からでも、それっぽい記述を抜き出して並べ、「この幻は、昨年の地震のことを指している」「このたとえは、あの国の大統領を意味している」「ここの預言は、○年に生まれた私について言っている」ともっともらしく言えてしまう、取り扱い注意な書物なんです。

 一方で、多くの人からすると、上手くいかない世の中で、今何が起きているのか? これから何が起きるのか? 上手くいくためにどうすればいいのか? シンプルに答えをくれる指導者は、非常に魅力的に映ります。複雑な聖書の記述から「これはこういう意味で私たちはこうすればいい」と教えてくれる存在は、便利ですよね?

 そう、私たちは、あらゆる問題が何のせいで起き、解決のためにどうすればいいか、多くの要素が重なっている現実を無視して、「全ては○○のせい」「○○すれば全て解決」という教えに、従いたくなる誘惑があります。その一つが、古代から現代に至るまで根を張っている「律法主義」や「原理主義」です。

 「上手くいかないのは、掟を字義どおり守らないから」「掟を忠実に守れば、病も、貧困も関係性も、全て解決する」……そうして、病に苦しむ人の先祖に、どんな罪人が存在したか? 不幸が絶えない人の家に、どんな因縁が存在したか? 家系を遡って示し、救われるためにこれをしなさい、あれをしなさいと言い始めれば、もう立派な霊感商法です。

 パウロからエフェソの町へ派遣されたテモテも、父方は異教の神を崇めていた異邦人の家系です。「彼を指導者に迎えれば、この教会は汚れてしまう」「先祖の罪に触れてしまう」そう主張して、自分のようなユダヤ人の指導者を迎えなければダメだ! と語った教師もいたかもしれません。「彼を追い出すことこそ、教会が繁栄する道だ」と。

 もしかしたら、そういうふうに、分かりやすい解決策や、問題の原因を語った方が、悩んでいる人、苦しんでいる人を集めやすいかもしれません。あそこに行けば、病が治る、未来が分かる、物事が上手く進んでいくと、宣伝しやすいかもしれません。でもそれは、偽りの教えで、健全な牧会ではないんです。

 迷った羊を集めるために、狼が出たと脅したり、牧草に火を放ったりして、羊たちを、不安と恐怖に迷い込ませてはいけないんです。律法を、聖書の掟を、正しく用いるということは、自分たちの正統性を主張するために使うのではなく、自分たちの過ちを、共に悔い改めるため、共に歩み直すため、神の掟に照らされるということなんです。

 今日から読み始めた牧会書簡……この後も、現代の私たちと重なることや、今では問題視せざるを得ない様々な言葉が出てきます。その一つ一つを丁寧に読み進めながら、この地域における牧会を、教会全体で考えていければと思います。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。