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悔い改めと天の国【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 マタイによる福音書4:12〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 「どうしたら天国へ行けますか?」という問いに対して「悔い改めて、福音を信じなさい」と返されることがあります。福音というのは「良い知らせ」のことで、神様が全ての人を救うため、この世に送ってくださった、イエス様の教えと業を意味します。つまり、「福音を信じなさい」というのは「神の子イエス・キリストの言われたこと、為さったことを信じなさい」という意味です。

 一方、「悔い改め」というのは「生き方を根本的に変えること」「間違った方向から正しい方向へ向き直ること」です。単に、間違ったことを悔いて終わるのではなく、生き方を改めて進んでいくことです。誤った方角から180度回って、正しい方角へ心の向きを変えるため「回心」とも呼ばれます。今までとは違う生き方をするわけです。

 たとえば、宣教者パウロは、復活したイエス様の幻と出会って、イエス様の弟子たちを迫害する生き方から、自分も弟子たちの仲間になって、イエス様の教えと業を宣べ伝える生き方へ、180度向きを変えていきました。キリスト教徒の「悔い改め」「回心」の典型的な例として、度々持ち出される出来事です。

 ただ、自分にも、それが求められると言われたら、ちょっと荷が重いですよね? もう少し、ハードルの低い例はないかと聞かれたら、徴税人ザアカイの話が出てきます。ユダヤ人であるにもかかわらず、ローマ帝国の手先となって、同胞から多くの税金を巻き上げていたザアカイは、イエス様と出会ったことで、次のように宣言します。

 「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを4倍にして返します」……まさに、生き方の方向転換です。とはいえ、これもなかなか真似できません。今までの過ちを清算するため、破産するかもしれません。他に例はないかと聞かれたら、イエス様の弟子たちが出てきます。

 ちょうど、イエス様が宣教を開始した直後の記事で、4人の漁師を弟子にする話がありました。ガリラヤ湖のほとりで、網を打っていた漁師たちは、イエス様から「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、すぐ仕事を捨てて従います。一緒にいた家族も置いて、イエス様に付いて行きます。

 これもまた「生き方を変える」出来事でした。しかし、やっぱり簡単には真似できそうにありません。仕事を捨てたり、仕事を変えたりは一大事です。家族も巻き込む方向転換です。どうも私たちが考える「悔い改め」とはスケールが違うように見えてきます。「心の中で反省する」に留まらず、今の状態から抜け出すこと、周りの人をも巻き込んでしまう生き方の変革が求められます。

 では、「生き方を変えられない」人はどうなるんでしょう? マタイによる福音書では、イエス様と敵対するファリサイ派やサドカイ派の人々が、洗礼者ヨハネのもとへ「悔い改めのバプテスマ」を受けに来たことが書かれています。しかし、ヨハネは彼らに対し、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しく追求し、「実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と警告していました。

 どうやら、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、それまでの生き方から根本的に変わることができなかったみたいです。確かに、彼らは洗礼者ヨハネのもとを訪れた後も、神の子であるイエス様を受け入れることができず、病人や異邦人を思いやるよりも、人を裁くことに熱心な生き方を変えられませんでした。

 ここまで聞くと、自分の生き方を根本的に変えられなければ、天の国、神の国には入れないと言われているように感じます。「間違いを犯してしまいました」「悪いことをしてしまいました」と反省しても、今までと違う生き方ができないなら、天国に迎えてもらえないと思われるかもしれません。

 実際、イエス様の生涯を最初に記したマルコによる福音書では、イエス様が宣教の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われたことが書かれていました。その後に書かれたマタイによる福音書でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」というイエス様の言葉が出てきます。

 マタイによる福音書では、「神の国」という言葉を「天の国」に置き換えて語っているため、どちらも言われていることは同じです。ただ、ちょっと順番が違います。最初に書かれたマルコによる福音書では「神の国(天の国)は近づいた」という言葉が先に来て、「悔い改めて、福音を信じなさい」と出てきます。

 しかし、後から書かれたマタイによる福音書では「悔い改めよ」が先に来て、「天の国(神の国)は近づいた」という言葉が後になっています。これを見て、皆さんはどんな印象を持つでしょうか? 何となく、「悔い改めよ」の後で「天の国は近づいた」と言われると、悔い改めることが、天国に近づく条件のように感じられるかもしれません。

 けれども、この言葉は「悔い改めよ。そうすれば天の国に近づく」という意味ではなく「悔い改めよ。なぜなら天の国は近づいたのだから」と訳し得るもので、それ自体が福音(良い知らせ)になっています。というのも、悔い改めが難しい、生き方を根本的に変えられない私たちへ、神様の方から近づいてきて、変化と回復をもたらす知らせになっているからです。

 考えてみれば、「悔い改め」の例として、しばしば語られる宣教者パウロの回心は、パウロの方から自分の過ちを反省して、その生き方を改めて、イエス様に近づいた話じゃありませんでした。イエス様の方からパウロに近づき、声をかけ、その生き方を変えさせた出来事でした。

 徴税人ザアカイの回心も、ザアカイの方から自分の過ちを反省し、その生き方を改めてイエス様に受け入れてもらった話じゃありません。イエス様の方からザアカイを呼びとめ「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と願ったことで、その生き方を変えさせた出来事でした。

 イエス様の弟子たちも、弟子たちの方からイエス様を探し出し、イエス様を追いかけて「弟子にしてくれ」と懇願したわけじゃありません。イエス様の方から弟子たちに近づき「私に付いて来なさい」「私に従いなさい」と呼びかけて、その生き方を変えさせます。イエス様が十字架にかけられて、3日目に復活してからも、弟子たちの方から「見捨ててごめんなさい」「ゆるしてください」と悔い改めたわけじゃありません。

 イエス様の方から「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われ、改めて、彼らはキリストの弟子として生きることができるようになりました。実は、自分の力で生き方を変え、自分の意志で悔い改めた人間は、一人もいなかったんです。むしろ、天の国に迎えるため、悔い改めをもたらすのは、いつも神様の方でした。

 「天の国(神の国)は近づいた」それは、私たちが自分の生き方を根本的に変えるまで神様は遠くで待っているという知らせではありません、神様の方から私たちを迎えるために近づいて、私たちに新しい生き方をもたらす「悔い改め」に導いてくださるという知らせです。本来なら、切り倒されて火に投げ込まれるはずの人間が、生き方を変えられて、天の国にふさわしい者とされていく、変化と回復の知らせです。

 洗礼者ヨハネは、「私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水でバプテスマを授けているが、私の後から来る人は……聖霊と火であなたがたにバプテスマをお授けになる」と言いました。自分の生き方を変えられない、悔い改めない人のことを、私は変えられないけれど、イエス様は変えられる……聖霊と火で清められる、と聞こえてきます。

 実際、イエス様が捕まったとき、最後までついていくことができなかった弟子たちは、イエス様から約束された聖霊を受けて、新しくキリストの証人として出発することができました。自分の力で生き方を変えられなかった人たちは、良い実を結ばなかった者として燃える火に投げ込まれ、捨てられてしまったわけではなく、新しい生き方をもたらす聖霊の炎を与えられ、清められていきました。

 マタイによる福音書は、イエス様が宣教を開始するとき、預言者イザヤの言葉を引用して、こんなメッセージを記しています。「闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った」……もし、自分自身が死に向かって、滅びにむかって闇の中を歩んでいるように感じる人は、この良い知らせを聞いてください。

 簡単には生き方を変えられず、このまま切り倒されて火に投げ込まれることを恐れている人は、イエス様の教えと業を思い出してください。今日、この言葉を聞いたときから、イエス様と新しく出会ったときから、悔い改めは始まっているんです。自分自身を変えられないあなたのために、どこまでも付き合い続けてくださるイエス様が、自ら訪れてくださったんです。

 あなたが天の国へ近づくのではありません。天の国が、あなたの方へ、近づいてきたんです。あなたを迎えるために、神の国が到来するんです。だから、悔い改めなさい。恐怖と不安から解放されて、この方を信頼する者となりなさい。あなたの前にやって来た方はあなたを滅びの火で焼き尽くすためではなく、あなたを聖霊の炎で清めるためにやって来ました。あなたを新しく生かすため、復活させるため、迎えるためにやって来ました。

 さあ、行きなさい。


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