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僕の好きな映画と僕。

※この文章に出てくる登場人物の言葉は映画のセリフそのままではなく、僕の記憶を基にして、ざっくりとした書き方をしています。

 先日、注文していた、僕の大好きな映画のBlu-rayディスクが届いた。映画のタイトルは『水曜日が消えた』。

 ざっくりとあらすじを書くと、主人公の「僕」は、幼少期の事故により、曜日ごとに7つの人格が入れ替わるようになってしまう。各人格はその日を生きる曜日で呼ばれ、主人公の「僕」は「火曜日」である。火曜日は店も休みだし、図書館だって休館日で入る事が出来ない。毎週の通院は火曜日の役目。つまらない、けれど穏やかな日々を過ごしていた火曜日に、ある日突然「水曜日」の朝が訪れる———。

といった内容。ありきたりな括り方をすれば「多重人格モノ」の映画になるのだろうが、小説版では「解離性同一性障害」という病名ではない、別の病名で説明されているため、敢えて僕は主人公の彼を「解離性同一性障害」であるとは書かない。

[僕の“多重人格モノ”に対する感情]

 僕は基本的に、多重人格モノの映画やドラマ、小説等を好まない。それには色々な理由がある。基本的には記憶共有が出来ない僕たちであるが、メディアの情報に引っ張られ、そもそもテレビでDIDを扱われる事そのものに嫌悪感がある人格がパニックを起こしたり、自分をDIDだと認めていない人格が(失礼な表現ではあるが)「俺は“コレ”じゃない!」と暴れ出したり。人格交代のシーンに引き摺られて、自分自身が激しい人格交代(俗に言うポップアップ)を起こして混乱したり。至極個人的な趣味嗜好の話をすると、ミステリーの犯人やトリックとして使われたり、何かしらの事件を起こしたり、“ファンタジー”的な描写が強かったり。そう言う“多重人格”の描かれ方が、僕は好きでは無い。

[僕にとっての『水曜日が消えた』]

 『水曜日が消えた』という作品は、僕が嫌悪感なく観られる、数少ない「多重人格モノ」の映画だ。この作品では刑事事件は起こらない。血も出て来ないし、犯人も出て来ない。穏やかなクラシック音楽と美しい色彩と共に、ただただ穏やかな、「普通の日常」が流れてゆく。その日常が、少しずつ、それでも確実に変わってゆく。

 そう、これは“僕の日常そのもの”なのだ。本当に。この映画を観る人によって十人十色の感想を抱くだろうが、僕にとってはこれが「普通」。ただただ、僕の「普通の日常」なのだ。とは言っても、僕の人格交代は曜日毎では無く、ほぼランダムでコントロールが効かなかったり、ちょこちょことした違いはあるが。別人格が散らかしたものを溜息を吐きながら片付けたり、使うカップが人格ごとに違ったり(流石にうちには人数分の机や歯ブラシやタオル等は無いが……)、身に覚えのない大量の荷物が届いたり、「自分が好きな人の好きな人は自分の別人格」であったり、“ならでは”のトラブルや切なさ、葛藤もあり、「あるある〜!それだよそれ〜!」と笑ってしまう場面もあった。

[僕と「月曜日」、そして「火曜日」から学んだ事]

 僕が一番心を打たれたのは、「火曜日」と「月曜日」の言葉だ。もうそのまま、「これが普段僕が考えている事なので、取り敢えずこの映画を見て下さい」と差し出したくなるくらいには、最初から最後まで、彼らの言葉が、そのまま。僕の考えている事だった。もうどの台詞が、と言う風に抜粋出来ない。それくらい。全てだ。彼らの言葉が、僕そのものだった。

 映画の彼らは「自分の曜日」は確実に自分で居られるため、各々が自分の仕事をしていたり、趣味や活動をしていたりする。記憶は共有せず、ノートや付箋でやり取りをしている。各々が各々を生きているからなのかはよく分からないが、彼らは初め、互いに余り干渉しなかった。最低限の連絡だけで、互いの生活や内情には踏み込まない。そんなスタイルにも共感した。僕自身が、僕の人生を生きたい人であったし、別人格のプライベートにわざわざ踏み込む必要もないと思っていた。別人格に対して、“たまたま同じマンションに住んでいる人”くらいの認識しか無かった。

 僕はどちらかと言うと、「月曜日」寄りの思考回路をしている。生きている時間全てを自分が味わいたい。明日も当たり前に自分であって欲しい。みんなが享受しているはずの、当たり前、その全てが欲しい。
 そんな「月曜日」の言葉に、息が出来なくなる程頷いた。その「月曜日」に、「火曜日」が応えた言葉が、僕には突き刺さった。

「他の人(人格)にだって大切なものがあるんだ。
僕のせいで大切な人と、お別れも出来なかった。
だから返してあげなきゃ駄目なんだ。」

 この「火曜日」の言葉を聞いた時に、僕は瞬発的に自分と同じ体に住む、別人格に思いを馳せた。あの人は何が好きなんだろう。彼は普段何をしているんだろう。彼女が大切にしているのは、何なのだろうか。僕は何も知らない。僕には好きなものも、大切なものもある。譲れないものもある。僕と同じように、別人格にだって、“ソレ”があるのでは無いか?自分は自分の大事なものを握りしめるだけ握りしめて、「あくまで他人だから」と、別人格を見なかった事にして、居ないものにして。つまりは蔑ろにしていたのでは無いだろうか。
 別人格と自分はあくまで「対等」で、彼らも僕と同じ存在だと、「火曜日」が気付かせてくれたのだ。

[『水曜日が消えた』が僕に残したもの]

 僕はこの映画を観終わった後、「もっと別人格と話をしよう」と思った。と言うか、映画館でこの作品を見た僕ともう一人は激しくポップアップを起こし、映画館のロビーで、交互に身体を使って語り合った。各々の映画の感想と共に、

「一緒に生きるのだから、もっとたくさん、話をしよう」

と。

「他人だから」と距離を置いていた僕が、“みんな”で生きるためにまず出来る事は、“他の人格とコミュニケーションをとり、お互いを知る事”だった。他人だけど、他人じゃない。そんな彼らとの距離感は、非常に難しい。それでも映画の彼らのように、平穏に、みんなで「ただの日常」を過ごしていきたい。

僕はこの映画を、きっとずっと、心に握りしめて生きていくと思う。

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