考える警告
ぼくの目は、千住の飲み横から横道に少し入ったところにあった。
まちを歩いているといろいろなものが無言で訴えてくる。
「給水、生きている 平成30年7月」
使用中の給水管だから工事などの時は気をつけてね、くらいの意味だろうが、ドキュメンタリー番組のタイトルのような、こんな詩的な言い方するセンスにニヤつく。千住のまちにも例外なく、あふれている文字たち。
「ここに止めると です!」
その下には「No Bicycle Parking」と真っ二つの自転車のピクトグラム。自転車を止るなという警告であることはわかるが、「ここに止めると」何をされるかわからない。なんだかおかしい。大喜利ではないが、間を埋める言葉を考えてみたくなる、ニヤついてしまう、が。
警告の重要な部分が赤か何かで着色されてたのだろう。それがまるでずっとなかったかのように、警告の重要でない部分は生き生きと新しい意味を想像させる。違うモノになる。
まちの魅力も、実は重要でない部分と思われるモノの集まりに将来を支配されているのかもしれない。「普通」と呼ばれる得体の知れないモノに。まちは「普通」によって本来の意味を書き換えられ、どんどん変えられていく。気づいた時にはもう遅い。まちの顔はどこにでもありそうな「普通」の顔になっている。
最近、千住のまちから数棟の蔵が消えた。これが重要かどうかよくわからない、かもしれない。ただ言えることは、時間は戻らない。それは千住に「普通」にあるモノだったけど、千住によくある「普通」のできごとになりつつある。
千住の「普通」に何ができるだろうか。
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