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自分を誤魔化してまで欠けてないふりをしたくない。

ぼくは、母方の祖母に嫌悪感をもっている。

自分が祖母に直接何かされたわけではないけれど

それでも嫌いになったのにはそれなりに理由がある。


大まかには、
オカンの優しさにつけ込んで
祖母がオカンを振り回して、傷つけてきたから。


それが積もり積もって、今がある。



祖母が入院している。

もしかしたら、もう長くないかもしれない。

オカンから見舞いに行けと連絡も来ている。



でも、正直言って

ぼくは行きたくない。


オカンは
息子のぼくから見て

心理学のドライバー『Be Perfect』にがんじがらめになっているように思える。


『家族はこうでなければならない』
『子はこうあるべき』


そういった理想の家族像・娘像から外れてしまうことに異常に自己嫌悪してしまうんじゃないのか。


と言うのも


オカンは

祖母にされてきた数々の事を

泣きながら、怒りながら、寂しそうにしながら

ぼくに話したことがある。


ずっと昔のことから、最近のことまで。


そんなに長くさまざまな『憎しみ』を抱えながらも


結局は祖母の看護に長く尽くしてきた。


そして、最後を丁重に見送ろうとしてる。


意味がわからない。


でも書いててふと思ったけど

憎しみと愛情は表裏一体。

だから、
あながちドライバーだけではないのかもしれない。




それならそれでいいけど。




けど、それとぼくの想いはまた別である。


祖母に嫌悪感しか湧かないぼくは

見舞いに行きたいとは思えないのである。



ぼくからしたら

オカンは、女手ひとつ片親ながらも

姉・兄・ぼくを育ててくれた人。

『大切』という言葉では表現しきれない感謝と尊敬の感情がある。


その人を傷つけてきた人が祖母である。


それが許せないのです。


人を傷つけ、嘲笑い、体裁や楽するため嘘をついてきた人が、『人生の最後だから』と優しくされ、無条件に愛されることが、ぼくは理不尽に感じる。



祖母がぼくに嫌われ、軽蔑されているのは祖母自身の自業自得、あるいは因果応報だと思う。



そして
ぼくは誰でも愛せるわけじゃない。

ぼくが誰かを想う時間も
誰かに費やす時間も有限だ

だから、愛したい人達に捧げる分しかないのだ。


親族の死に際に無関心なぼくは

世間的にズレていて
なんなら人として
常識か社会性が欠けているんだろう。


この記事だって

祖母に想うところがあって書いているわけじゃない。


オカンに『見舞いに行け』と言われたことに対するモヤモヤを吐き出してるに過ぎない。



それでも

ぼくがぼくの人生を生きるということは

ぼくが
誰を想うか
何を選ぶか
どうするのか

ぼくの気持ちと思考で判断すること・行動すること
その積み重ねだと思う。

逆に常識や社会性、それら自体が判断や行動を決めてしまうなら、それは誰の尺度で生きているのか?とも思う。


もちろん常識や社会性は参考尺度として必要で
判断や行動に大きく影響するけども


今回の件に関しては、 

愛されるべき人は相応に愛されてほしいと思うからこそ、嫌われるべくして嫌われている人が人の優しさにつけ込んで愛情を受け取ることが、ぼくはどうしても許せないのです。


さんざん今までしておいて、都合良く愛されてたまるかよ。愛されるべき人がずっと耐えて泣いてんのに。


そんな理不尽を許すくらいなら
ぼくは非常識で冷酷でいい。

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