君主論に基づく袁紹と曹操の比較
【※こちらは一年くらい前にFANBOX会員限定で書いた記事です。頑張って書いてたので、遅ればせながらこちらで一般公開にさせていただきます】
どもども、久保カズヤに御座います。
つい先日に出した、曹操にフォーカスを当てたこちらの動画。
曹操が三国志最強となった秘訣3選!!
そして次は「袁紹」の解説動画を出す予定となっております。
曹操の盟友であり最大の宿敵「袁紹」の生涯【ゆっくり歴史解説】
この二本の動画を作り、また最近「君主論」を扱った書籍も読んだのですが、この視点で両者を比較すると、これまた面白いんですよね。
「君主」の器について。どうしてあれほど大きかった袁紹が曹操に敗れたのか。
僕はこれがずっと不思議でした。
だって袁紹って正直な話、大きなミスは犯していないんですよ。
むしろ君主としては名君と言ってもよく、確かに冷酷さや打算が目立ってはいましたが、乱世で人の上に立つ以上、常人の倫理観を持っていては大事を成すことなんて出来ません。
外交も軍事も内政も、全ての点で当時の群雄から頭一つ抜けた存在でした。
反対に曹操は軍事力に特化しすぎていて、反乱は多発するし、四方は敵だらけだし、本当に腕っぷしだけで周囲を黙らせてきたような、苛烈な群雄です。
前半生だけを見ると、決して名君とは言い難い。戦が強い。それだけなんです。
それなのにどうして。
これに対する答えが今までは「曹操が怪物だから」でしか説明できませんでした。
ただ、袁紹と一つ一つを比較していく上で何となく見えてきたこともあったので、今回は君主論に基づいて、そういった話をしてみようかなと思います。
【統治方法の比較】
曹操と袁紹が、それぞれどのように領土の統治を行っていたかを見ていきましょう。
まずは袁紹。
袁紹は豫州汝南郡出身の超名門の家の出ですが、冀州渤海郡をスタートの地に選びました。
というのも冀州はこの天下の中でも人口も多く、土壌も豊かであり、後漢王朝を築いた「光武帝・劉秀」もこの地を基盤として天下を握っています。
その後、袁紹は冀州牧「韓馥」から地盤を丸々譲り受け、冀州全域を手中に収めるようになり、幽州の「公孫瓚」を降してからは「冀州・幽州・青州・并州」を治める天下最大の勢力となりました。
まず着目すべきは、冀州は韓馥から譲り受けた地であるということです。
君主論ではこの袁紹の手法を、極めて効率的な領土獲得の方法であるとしています。
異民族が住む様な、文化も言語も違う地域を治めるのは難しいですが、これは同じ中華圏ですので、基本的には前の君主と変わらない運営方針を続ければ、内側が揉めるなんてことはありません。
そして最も大事なのは「前任の支配者であったものを処分する」ということ。
これは新たな反乱の火種になるのでね。根絶やしにするに越したことは無いとマキャベリ(君主論の作者)は言います(笑)
袁紹の場合、韓馥に直接手を下すことなく、精神をジワジワと蝕みながら自殺に追い込んでおり、これは単純に「韓馥の器量が乏しかった」だけの事件として片付けられました。
憎い程に効率的な手法で、まるっと袁紹は地盤を無傷のまま手に入れることに成功しました。
加えて冀州の有力者(沮授・審配・田豊)をこの上なく優遇し、公孫瓚との戦いで大いに用いています。
普通、新参の人間を最前線で戦わせる行為は非道であると見られがちですが、現代風に言えば、新しく入ってきた社員に大きな仕事を任せるようなもの。
しかもこの新入社員は、大卒というわけではなく、能力のある中途採用者になります。
そう考えると、非道であるというよりは、頼られていると感じて新入社員は喜んで仕事に取組み、能力をアピールします。
袁紹はそうやって巧みに内側をまとめ上げていったのです。
そして公孫瓚が倒れて敵が居なくなると、今度は力を持ち過ぎた冀州有力者の力を削り、豫州有力者と争うように仕向けました。
内輪揉めも良い対応であるようには見えませんが、有力者の矛を君主に向かわせないためには必要な対応であると君主論にも記されています。
平時においては、こうして配下同士でいがみ合わせておけば、君主が弱ることは無く効果的なのです。
さて、では曹操の方はどうであったか。
曹操は「青州黄巾賊の乱」で死闘を繰り広げて、戦死していた「兗州」の統治者の後任の座を力で掴みました。
その後、曹操は降伏してきたこの青州黄巾賊を直下軍に治めて、自らの軍事力を増強します。
ただ、これは悪手でした。部外者を、それも自らの土地を荒らした人間を領内に住まわせることにしたわけですから。
君主論では、民に恨まれる行為として「財産・婦女子を奪うこと」と記述されています。
逆に言えばこれさえしなければ、恨みを買うようなことにはならないんですが、青州黄巾賊はこれをやってきた部外者であり、地元の民からは大いに反発があったと予想できます。
だからこそ地元有力者の九割が寝返る「兗州の乱」という大反乱が勃発しました。
しかし曹操は、その天才的な軍事の才能を遺憾なく発揮して、力で無理やり反乱を平定します。曹操の問題解説方法って、ほとんどがこの形態なんですよね。
強力な軍事力。これが強ければ強い程、対応できるキャパシティは大きくなります。
そして袁紹と違い、曹操は何度も大敗を経験し、傷つきながら大きくなっていた人物です。力で上に昇っていった人物の側には、経験豊富で優秀で忠誠心の高い側近が集まってくるようにもなります。
袁紹は効率的で丁寧に完璧に内側を治めた結果、優秀な人材を自ら削っていってしまい、曹操は傷だらけになりながら何度も死線を越えた結果、最強の側近が育つことになった。
本当に難しいですよね。正解を出し続けると最後は何故か小さくなり、失敗を出し続けながらも前に進めば、最後はとてつもなく大きくなっている。
自分の生き方を見直すきっかけになる様な気もしてきます。
【恐れられることと慕われること】
君主論で最も有名な論が恐らく「慕われるより恐れられろ」というものでしょう。
つまり、緩やかに優しく統治をするよりも、恐怖政治を敷いた方が良いとマキャベリは述べているのです。
人間は、いや人間に限らず動物というのは生存本能として「怖い体験」を忘れにくいものであり、その反対で「嬉しかった体験」なんかはよっぽどのことが無い限りは忘れやすいんです。
それを考えると、恩を施すよりも恐怖を基本にした方が、結局は上手く統治を行えるというのです。
ただ、これには一つ条件があります。恐怖は一度だけドカンと与えるのが良く、ずーっと恐怖を敷いていると逆に反乱を誘発するらしいです。まぁ、ずーっと息苦しい中で生きるのはつらいからね。
というわけでこの点においても曹操と袁紹を比較してみましょう。
まずは袁紹ですが、韓馥の地位を譲り受けた後は、特に恐怖で縛るということはせず、むしろ君主権力の基盤である軍事の統帥権まで臣下(沮授)に委ねています。
この場合は、公孫瓚という強大な敵が目前に迫っていた為に、やむを得ずこういう形にしたのでしょう。
この環境こそが「恐怖」の働きをしていたとも考えられますね。
そして公孫瓚を倒すと、最大の功労者である麹義将軍を軍規違反で処刑。沮授の軍権を分割し、冀州有力者を冷遇するなどの施策を行っていきました。
このおかげで徐々に、一度は手放していた君主権力が袁紹に戻り始めるのですが、結局は官渡で曹操に負けた為に、分裂政策が完全に裏目に出る方向へと崩壊していきました。
完全にどこかで一度、大きな恐怖で臣下達を結束させれれば良かったのですが、肝心な軍権が手元になかったので、袁紹は転げ落ちていったという感じですね。
曹操は、兗州の乱を力で抑え込み、敵対していた徐州を征伐する際は大虐殺を敢行し、朝廷勢力が謀反を企めば、皇后であろうとかまわず敵対者の一族を悉く処刑しています。
一度でドカンと恐怖を与えて、決して曹操には勝てないということを植え付けている訳です。
曹操は袁紹と違って強力な軍事力と、一本化した中央集権制度を持っていたので、この様に苛烈な施策を行っても対応が可能だったというわけですね。
この辺りの違いもまた、両者の結果に差をつけたと言っても良いかもしれないですね。
【進言の取捨選択】
君主の仕事の中で最も困難なものと言えば「どの配下の進言を聞くか」といったものでした。つまり情報の取捨選択です。
こればかりは君主の器に左右されるものであり、正解は無いと言っても良いでしょう。
ただ、これをやってはいけないというのはある、と君主論には記されています。
それが「皆の意見を聞く」というもの。
多くの人間から意見を聞くのは正しい選択であるかのようにも思いますが、その意見の中には単なる御機嫌取りだったり、見当違いの意見なんかも多分に含まれます。まるでTwitterだね(ぇ
そんなゴミを拾ってしまわない様にするには、意見を聞く人を絞らないといけないわけです。それも、特に優秀な人に。
袁紹の場合、最初は田豊や沮授がその役目を担っていましたが、冀州派を冷遇した為に彼らの意見は取り上げられなくなり、袁紹は多くの臣下の言葉を取捨選択しなければならなくなりました。
しかし曹操は、完全に「荀彧」の意見に絞って耳を傾けています。それに次いで郭嘉、荀攸でしょう。
何をするにも荀彧の話を聞き、多くの意見が出れば荀彧の言葉を採用します。
その結果、曹操は迅速かつ果断に動けるようになったわけです。
戦時では行動の速さが何よりも重要とされます。先手必勝とはよく言ったもので。
以上の全ての比較から通して見えてくるのは「曹操は時代に合った動きをしていた」ということです。
おそらく時代がもう少し落ち着いていれば、曹操はただの暴君となり、袁紹こそが天下の名君になっていたでしょう。しかし乱れに乱れた戦国時代となると、曹操の方に流れは傾いてくるわけです。
現代は、何でも効率よく最適解を求められるような世の中ですが、こうして見てみると、そればかりに囚われてはいけないとも思いますね。果断に動いた者こそが最後に勝利を掴むのです。
まぁ、それは厳しい道のりではあるでしょうけどね(笑)