金融。チワワ。学校。

深夜一時過ぎほどに目覚めたので、後二時間くらい寝足りない気もするが、目覚め活動を再開するととする。右目の不調はやや良くなる。左目が少しへんだろうか。喉の調子はほぼ本調子。筋肉痛はほぼ無し。寝起きということもあり、ややぼんやりとはする。SNSへの拒否感はやや減退。なんとか距離を取れそうな気もして来た。ただそれは僕の側があれらから距離を取れる、というだけなので、いわば、僕の側からはあれら有象無象を無視するという距離の取り方になる。今日はやや筆が進まない。肉体的なトレーニングをすることで、日常的な動作の精度、速度が向上している気がする。というよりそれが目的でトレーニングしているのだろう。僕はおどけたポーズや動作をするのが割と好きなのだが、また、後ろ歩き横歩き時の重心移動に工夫を凝らすとかが好きなのだが、その辺に効果を感じる。やはり、少し眠いようだ。ぼんやりしたことを書いている。将棋の調子が良い。着実に連勝している。気がついたら勝率がだいぶ良くなっている。考え方がだいぶ変わったからだと思う。例えばこんな風に変わった。「自分が全力を尽くせば、相手からより良い手を引き出せる」「より良い手は予想外な手が多いので面白い」「自分も相手も負ける展開でも、より良い手を指すことは楽しい」「全力を尽くせば、負けても楽しく、なら、全力で相手を叩き潰しても相手としても楽しいはず」「少なくともそういう風な相手はいる」うんぬん。より具体的な勝負勘としては「呼吸、力の緩急がわかって来た」「時間の使い方に戦略性を持たせられるようになった」「直感とじっくり考えたの手の違いがわかるようになって来た」など。他にもいろいろ変化はあるのだろうけれど。スポーツについては、例えば「人間とチワワが対等に競えるスポーツ」などを考えるのはなかなか面白いだろう。ある意味面白いスポーツというのは、そもそも存在する格差を前提にそれでも楽しめるように設計されている気もする。ということなどを飼い犬のチワワと遊びながら思う。教育についての考えを昨日に引き続いてまとめると、「そもそも大人として必要最低限の知識は、週に一冊程度軽めの教養書を読んでいれば三十歳程度までの読書量でギリギリ身につく」→「ならば、学校は知識の受け渡しを目的とするのは時間を短縮しているようでいて却って時間の無駄なのでは、また、知識を問う受験問題も不適」といったもの。教師というか、先生は、以上のような観点の元とらえると「基本的に生徒より長生きしている」→「生徒よりより多くの知識を吸収している」→「その知識量を元に生徒の体験をよりよくデザインする人」くらいだろうか。こう捉えれば生徒の側は「この人に自分の学生時代の体験の一部をデザインして欲しい」と思った先生の元へ集まればいい、やはり他者の手に自分の体験を委ねるのだから、そこはかなり意識的に先生を吟味すべきだ。決して、たまたま進学した学校でたまたま担任だったくらいで委ねるのはどうかと思う。僕なりの学校づくりとしては、これまでの考えを踏まえると、六年制の高校はどうだろうか、と思う。入学試験を無くしたいので、そもそも、偏差値的序列から逸脱した「入りたい奴は入りたいし、入りたくない奴は絶対入りたくない特性を持つ学校」でありたい、で、「高校とは大学進学への通過点」という価値観の人には、「六年制の高校」というのは論外だろう。けど、僕自身が10代の子に伝えたいことを伝えきるのに、三年じゃ短いよな、というのが実感。大雑把には、一二年で助走、三、四年で併走四、五年で独走、というイメージ。入って来た子たちの特性を彼ら自身と僕自身とで探り考える時期、考えた上でこういう風に生きたらいいのではないか、といろいろ試行錯誤する時期、一旦彼らと僕とが距離を取り、彼らが一人であれこれ工夫するのを遠くから見守る時期、で三分割してみた。また、そもそも大学教育は必要だけれど、現状の大学に不満な僕としては、腐った大学行くより俺から学んだほうがいいだろ、と思っているので、六年制という年限に我ながらしっくりくる。受験勉強というのは高校卒業後一年くらい予備校でも通ってすればいいのであって、高校は受験勉強とノータッチでありたい。で、仮にそれで大学受験に失敗してしまっても、大学行かなくても十分なリベラルアーツを六年制の高校で与えておきたい。こうして文章を書いていると、大体の場合、他者の目を意識している。そうは感じないかもしれないが、他人の興味と合致することを書こうと意識している多少。これは僕自身の興味を広げるという意味でとても良いのだが、逆に、他人の興味を一切考慮しないない兵した文章完全なる独り言、に強み感じる。他者を意識しない自閉状態とは自分の興味にしか興味がないわけで、多分その状態はとても強い。自分以外読まない文章の作成。そんなこと可能かはよくわからないが、取り組んでみたいことではある。また、他人嫌いになることも肯定したい。金融取引についてあれこれ考えているが、面白い。「タイプ分け→各タイプのパターン分析」が金融分析の基本の一つだと思うのだが、この発想はどこにでも応用でき、結果例えば小説を書くことや物を作ることや肉体をトレーニングすることなども金融として(?)捉えられそうな気がする。よくあるほんのキャッチコピーとして「筋トレという投資」とか「自分へ投資」とか、とは違う。「小説って金融活動でもあるんだな」とか「そもそも人の流れって金融活動そのものだな」とか、そういう感じ。あれこれ興味ある分野の学会のメールマガなどに登録していると、当たり前だけれど、小説賞以外にも、論文募集などの文章の公募って至る所でやっているんだな、と気づく。何か書いて送りたいな、と思う。腹案を練り始める。教育系の学会にはまだアクセスしていないので、そのうち調べたい。これから書く小説のイメージが少しずつ固まっていく。やはり、こうして案を練る時期も必要なのだろう。幸田露伴や井原西鶴など戯作者へのオマージュとなるかもしれない。どのような技術職でも、こなれてくるとついつい山場、クライマックスを考えてしまう。それはそれで良い演出家なのだが、例えば幸田露伴の初期作などはおそらく、クライマックスや全体の流れなどあんまり考えず、面白いと思ったことを次々と重ねていった結果の「怒涛の尻切れとんぼ」になったのではないか、と実は幸田露伴三ページしか読んでいないのだけれど予想する。実際、「あれ?これで終わり」というあっけにとられるような終わり方だとしても、小説として面白くなりうる。心に残る読後感じゃない方が、心に残る場合もある。なんとなく、アニメーションの原理と少し似ている。絵を何枚も重ねてそれを連続的に写して動きを作るアレ。ただ、面白いと思われる断片を何枚も重ねてそれを文体によって連続的に高速に上映して動きにする。しかしその動きは場当たり的だ。というより場当たり的な動きだから面白い。そういえばこの頃youtubeなどで、僕自身は一切やる気のない様々な競技分野の動画を眺め、各業界?の違いやあり方について考えている。具体的には、格ゲー、ポケモン、競馬予想、囲碁、とかとか。これは例えば、ニホンザルチンバジーゴリラなどを比較研究することで、人間進化の歴史を考える面白さと似ている。それぞれの競技にはそれぞれの歴史があり、youtubeなどで人気動画を出している人たちはそれぞれの分野のトップな訳で、彼らの動画投稿のスタイルとかマネタイズのあり方とか優劣というわけではなく、けど、異なる時系列の流れを同時に観測しているような面白さがある。例えば、初心者向けコンテンツの充実具合、とか。保元物語を読んでいるが、なかなか面白くなって来た。やはり、少し眠いのだろう、昨日考えたことを書き写しているだけだ。あまり文章が乗らない。頭の中で考えかけはするのだが、文章の形になるまで考えが具体的に操作できない。右目ややかゆい。他人の独り言に耳をすませること。先にも触れたが、他人を意識しない自分のためだけの文章自分のためだけの独り言は、これ以上の専門性はないだろう、というくらい専門知が詰まっている。それを他人に対しても当てはめる。他人がその人自身の興味の赴くがままにただ綴った文章などを見出す。そこから知識を得るすべ。ネット上で個人が自由に文章を公開している時代においてこの観点から他人の文章を読み吸収することができると強い。逆にいえば、ネット上に公開する文章とは、自分以外誰も読まないだろうな、と思うくらい自分の興味に自閉した方が本来はいい。他人の興味にあてはまろうとする文章など、利己心と他者をコントロールしたい心理の表れだろう、ほぼほぼ。となると、ある種の愚痴なども、有用な語り方となる。あと夫婦喧嘩とか。愚痴は、犬も喰わないのである。本来誰の興味も抱かないだろう愚痴愚痴したなにか。それが面白そうである。本来は誰も興味を持たないだろう個人的な何かに他人が興味を持つことがある、哲学とか、不思議だ。その不思議さをちょっと考えたい。あるいは、そうした他人の個人的問題個人的興味に踏み込めるようになるのがリベラルアーツで、また、そうした個人的興味問題に踏み込むおかげで、「自分以外の生を実体感でき、自由を感じられるのだろうか」とか。将棋を指す歳、俺はしばしハイエクの貨幣論を想起する。将棋にはいくつもの筋道筋がある、その道を通過する際に独特の対価を払う、その計算が面白い。ちょっと眠いから文章が壊れて来た。しかし一応祖rなりに思考はできている。その独特の通貨の支払い方を。いい時間なので、今日はこの辺で終わる。

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