君を見かけたという場所に私はいなかった
あれは、20代の頃の話だ。
「昨日の夜8時頃に君を上野で見かけたよ。」
と仕事の打ち合わせで同行した上司に言われた。
私はその時間には会社で仕事をしていて、
まだ飯田橋のオフィスにいた。
だから、私はその時間に上野にいるはずがない。
「私はその時間には、まだ会社にいましたよ。」
そう伝えると、
「いや、あれは間違いなく君だった!」
「居ただろう?上野に!」
と、私の返した言葉が気に障ったのか、
ちょっと不満気に言われた。
でも、それは私ではない。
実は、こうしたことは一度や二度ではない。
友人や仕事仲間などに、
品川駅のホームにいただろうとか、
福岡の百貨店で見かけた(!)とか、
その日には訪れていない場所で、
「見かけた」と言われることがある。
なぜ、そんなに私がそこにいたと
信じて疑わないのだろうか。
本人がいないといっているのに。
別の日の話だ。仕事を終えて、
くだんの上野で見かけたと言っていた人
(仮にAさんと呼ぶ)と、
別の仕事仲間(こちらはBさんと呼ぶ)と
新宿駅まで話をしながら一緒に向かっていたときだ。
エスカレーターの近くで、Aさんが
「あ、君に似ている!」
(出た、出た、またそんなこと言ってる!)
「この前見かけたのはあの人かも!」
と言い出した。
その人がいるであろう方向に顔を向けてみたが
体格も髪型も、歩き方すら全く違う。
そもそも、この前見かけたのは
上野だったはずで、ここは新宿だ。
もはや場所すら違う。
一緒にいたBさんも
「えー、全然似てないと思うけどなぁ。」
と言っている。
しかし、また不満そうな顔をしながら
Aさんはそっくりだと言っている。
Aさんが見ているのは何なのであろうか。
Aさんが認識している「私」は、
私自身やBさんにとっては「私」ではない。
これはいったいどういうことだろう。
本当の「私」はどちらの「私」なのだろうか。