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不確かなインスタレーション②

  順序立てて書いていこうとしたが、いつも通り出会ってしまったところから、書き留めておくことにしよう。

 インスタレーションの源流として、美術史的に、クルト・シュビッタースの「メルツバウ建築」を指すことがある。クルト・シュビッタースは、ライフワークとして自分のアトリエ兼住居を、廃材や石膏、その辺りに転がっているガラクタや白い板を用いて、不確定な幾何学的構造物に変容させた。約10年間かかり、ずっと継続させようとしていた作品である。もちろん、この中に人々は入ることができるが、用途は全く不明の空間である。
 ダダイストだったシュビッタースの意図は、さほど深刻ではなかったと私は思う。「メルツバウ」と言う名も意味を成していない音のつながりであり、極めて主観的な作品のように私は思うのだ。無意味さを求める痕跡が生々しいだけに。

 建物に大きく依拠する「メルツバウ」は、合計4カ所で制作されたという。本人も「未完と継続」を意図していたとすれば、少し前に流行り言葉になった、「ワークインプログレス」の源流でもある。その最も規模の大きな「ハノーファー・メルツバウ」は、第二次大戦で爆撃により焼失している。インスタレーションは、「仮設、一過性の設置」と、前回書いたので、メルツバウは、爆撃であろうとなかろうと朽ち果てることはあっても、「ある一定の期間だけ」と言う時間軸とは異なった「形を変え続ける無意味な建築の永続性」と言う時間軸に立脚しているように思う。
 しかし、シュビッタースの行った空間への依拠の方法や、造作方法、彫刻でも絵画でも建築でも無い、何か。平面性から触覚的な空間を構成していく部分は、インスタレーション作品と共通していることは確かだ。メルツバウは、作者没後、再現されたものが存在する。80年代に日本で見た作品も、この「再構築」の展示であったと思う。

 再構築では無いが、ザハ・ハディドが展示構成した、シュビッタースの展覧会が2016年にgalerie gmurzynskaで開催されていた。たまたま見つけたのだが、書くきっかけになっのでリンクを貼らせていただく。
http://www.gmurzynska.com/exhibitions/kurt-schwitters-merz/installation-views
ここで、ザハ・ハディドがいかにシュビッタースを解釈しているかが、画像から見て取れると同時に、彼女は分離した建築と美術、無意味なものに宿る言葉を発語できる建築家だったのだと、改めて知る。メルツバウが、歴史になる以前はシュビッタース自身の王国は未完成であり続け、永遠に変容は継続されるはずであった。「永遠」と美術との関係。これもまたインスタレーションがはらむ性格の大きな要素である。

続く

さて、ご褒美のドラマタイム!

©松井智惠  2022年6月19日 筆

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