感想:映画『幸福路のチー』 暮らし・空想・政治の分かち難さ

【製作国:台湾 2017年公開(日本公開:2019年)】

台湾で生まれ育ち、現在は米国人と結婚してニューヨークで暮らすチーは、祖母の死の報せを受けて帰国する。
故郷の幸福路で過ごす中で、幼少期の祖母との記憶から始まり、成長して台湾を離れるまでの経緯を振り返るチー。その半生には、白色テロや921大地震といった台湾の政治・社会的な出来事も密接に関係していた。
今後の人生を左右する重大な局面にいる彼女は、幸福路での追憶を経てその意思を固めていく。

本作は、主人公のチーの追憶と現在の暮らしをアニメーションで表現した作品である。
すべてを絵で表現し、物理法則にとらわれない事物の変形や接続を可能にするアニメーションというメディアは、複数の時空間を滑らかにつなぐことを得意とする。
この映画では、チーが経験した現実の暮らしと彼女の空想、そして台湾で起こった歴史的な事象が混淆した形で提示される。
ここで示されるのは、日々の生活と空想、そして政治がどれも分かち難いものだということだ。

特に本作は政治・社会の描写に重点を置く。チーの誕生日である1975年4月5日は、初代総統・蒋介石の命日だ。彼女の人生は、蒋介石亡き後の台湾と並行して進む。
従兄のウェンは白色テロで拷問に遭った影響で視神経にダメージを負っている。チーも政治に関心を持ち、学生時代には積極的にデモに参加、卒業後は新聞社で働くが、体制の変化に応じてその立場は揺れ動く。
また、チー自身は大学に進学したインテリ層だが、親しかった幼なじみにはそうでない者もいる。勉強が苦手で学校を退学したものの、手に職をつけて家庭を持ったショーンは1999年の921大地震で自宅マンションが倒壊して命を落とす。米兵の父と台湾人の母との間に生まれ、子どもの頃は金髪の容姿から好奇の目を向けられていたベティは、ナイトワークで生計を立てる中で富裕層の既婚者の愛人になり、妊娠したことで見放される(ベティとその母との交流を絶った彼女の父親の行動の再演でもある)

チーの生活は政治的な事象や社会構造と切り離すことができない。
これは、中華人民共和国との緊張関係の只中にある台湾において、とりわけ暮らしと政治が密接であり、また市民が社会的なイシューや自らのアイデンティティについて考える機会が多いこととも関連する。
チーの空想はある種の現実逃避としての色合いも帯びているが、彼女は必ず現実に戻ってくる(作中を通して彼女の空想で重要な役割を果たす祖母が、ラストシーンで「幸せは続かない」と言って去っていくのはその表れである)
暮らし・空想・政治が地続きであることは、アニメーションの連続性を通して形式・内容の両面で示される。 

チーの個人史と台湾史が織り交ざる本作の構造は、彼女が子どもを生み、その歴史を後世につなぐという結末部につながっていく。
チーは、自身が妊娠していることを、子どもを持つことに否定的な夫をはじめ周囲の誰にも告げずに台湾に帰省している。当初は母になることに葛藤のあった彼女だが、故郷をめぐり、自分の紡いだ歴史や、歳をとって言動の変化した両親、シングルマザーとして子どもと前向きに暮らすベティの姿を見る中で、自身も幸福路で子育てを行うことを決める。
台湾が置かれる状況を考えれば、「新たな世代に台湾の歴史・文化を継承する」ことは切実なテーマである。また、ベティやチーの子どもが複数のルーツを持つように、この「継承」は血統ではなく、台湾で生きることによってなされるものだ。
冒頭のチーは文化や価値観の違いから米国人の夫との生活に不満を抱え、先に移住したウェンほどには米国に馴染めない状態だった。
本作は彼女が故郷で過ごす中で自身のアイデンティティたる"台湾の幸福路"を再認識し、それを後世につないでいくことを選択する物語である。

結末に至るまでのチーの心境の変化には筋が通っているし、文化・歴史の継承にあたっては物理的に新しい世代を増やすことが必要である点も理解できるのだが、郷里の家族や出産にこだわる姿勢は個人的には苦手だった。
ベティ、チー、さらにその一世代前の母達をみると、自分自身の人生がうまくいっていない女性達が"生き甲斐"として子どもを利用している印象があり、それは子どもにとって幸せといえるのだろうか、と感じる。チーが母系社会の特徴を持つ台湾原住民・アミ族をルーツに持つことをはじめ、女性の主体的な選択・行動がピックアップされた作品ではあるものの、女性が出産することが自明とされている点には違和感が拭えなかった。

なお、本作において示される暮らし・空想・政治の結合は、本来は台湾のみにみられる特徴ではなく、あらゆる国や環境において普遍的なことであると思う。
アニメーションの可塑性や、有機物・無機物をフラットに描ける特性は、現実とは全く異なるフィクションの世界の構築のみならず、現実の範囲を拡張し、現実を問い直すことも可能にする。
社会的なイシューや歴史をアニメーションで表現する動きは欧米やアジアなど世界各地で活発である。また、本作に影響を与えた高畑勲・今敏も、アニメーション固有の表現で社会・歴史を描く試みを行った作家だった。
本作は台湾のアイデンティティを示すとともに、アニメーションが表現しうるものの多様性を象徴する作品だったと思う。

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